90年代も後半に入った頃からだったか、音楽は決して世界共通、単一の普遍的言語などではなく、特にクラシック音楽なぞはヨーロッパ・ローカルのローカル臭ふんぷんたる物だということをきちんと述べる批評家が目に留まり始めた。日本のオケのつまらなさに辟易し、アメリカのオケの無内容さにうんざりしていた我々は(「我々」というのは当時ともにコンサート通いやレコード店での外盤あさりを繰り返していた友人と私のことだが)「おっ」と思ったものである。許光俊や鈴木淳史、平林直哉などの、それまでの西洋音楽の教養主義的受容の伝統から離脱した、歯に衣着せぬ(しばしば痛快で、時に身も蓋もない)批評家達であったが、彼らの指摘は我々の常日頃の実感に即していた。
つまらなさや無内容さの原因がヨーロッパ・ローカルの意味の体系や固有の理屈を承知していないことにあることは明らかだった。ワインやビールがその土地に深く根差しているように、クラシック音楽もヨーロッパというものに深く根差しており、そのアウラや味わい、ニュアンスの多くはヨーロッパ固有のローカル性に深く依存していて切り離すことが出来ないのだろう。そこから離れた演奏にはネイティブとはどうしても異なる外国人の発音・発話のような借り物感や違和感が常に付きまとう。外国語を母国語レベルで身に付けることが難しいように、固有の音楽言語をネイティブレベルに習得するのも矢張り困難なようだ。母語という第一言語習得と外国語である第ニ言語習得の関係と同様の問題が同じく存在するのだろう。原語ではなく翻訳文の朗読を聴かされているような演奏を聴くたびにもどかしさを覚え、本物はここにはなく、別のところにあるという感覚が付きまとって離れないのである。そして、純然たる我々愛好家は職業的必要に迫られているわけではないのだから、当然わざわざ違和感や不自然さを押してまで聴こうとは思わないということになる。趣味として聴くのに遠慮は無用である。
さて、ローカルなものをローカルなものだと言うのは当たり前と言えば全く当たり前の指摘なのだが、それまでのクラシック受容では必ずしもそれが当たり前とはされていなかった。今は昔、かつてクラシック音楽は奉られており、多様な世界の中であまた存在する在り方の1つにしか過ぎぬものとして相対化されることは稀であった。一段も二段も上等なものとして考えられ、教養主義が生きていた時代にあっては、単純な本場崇拝と同時にクラシックがクラシックであるという理由だけで普遍的なものだと信じられていた気配ですらあった。楽譜は言語の呪縛から解放されて いる筈であって、楽譜通りに追究していけば言語と文化の差異を越えて、誰しもが最終的には人類共通のスタンダードにたどり着くことが出来るという素朴な信念すら生まれていたようなのだ。西欧音楽の伝統からすれば全くの周辺・辺境地域である日本で、その音楽を学ぶ当事者たちにしてみれば、そこに切実で悲壮な希望もあったに違いないが(戦前の官費留学生の夢や斉藤メソッドなどその代表だと思う)、本来ヨーロッパ・ローカルなものをユニヴァーサルなものだと考えたのはやはり誤解には違いないのである。そもそも多様な差異を塗りつぶして目指される普遍的なものが面白いか。
誤解は当のヨーロッパ自身がかつてそう誤解していたから生じたのでもあろう。かつて普遍を夢見たヨーロッパも、没落の時を経てさすがにもう大時代的なことを信じることは出来はしない。かつての普遍の夢はEU規模に縮小され、今や彼らは逆にヨーロッパ・クラシックが滅び去ることを心配せざるを得ないようですらある。押し寄せるグローバル化の波、減り続けるクラシック愛好者層、薄れゆく古き良きヨーロッパ性etc. もっとも、そんな危機意識の中では再びヨーロッパ人たる自分たちのローカル性について新たな自覚も生じたようで、それがまた別の刺激的な演奏を生み出しているのは頼もしいことではある。巨匠や名人が消えてスケールは小さくなったし、古き良き時代の品格や本物の味の濃さは望むべくもないが、それでもヨーロッパの完成期とも言えるバロックから古典期の作品が、この頃また楽しく聴けるようになってきたのは今だからこそではあろう。相対化されたヨーロッパ精神についての自己観察から生まれ出た、思いがけず自由な、今の身の丈にあったヨーロッパの愉悦が聞ける。たとえそこに常にパロディの臭いが付きまとうにしてもである。
一方、文学部上がりの我々の方はと言えば、言語の壁を乗り越えることの困難は身をもって体験していたし、作品のまともな解釈と究明はその言語・文化圏固有の意味や価値の体系、思考と感覚のスタイルについての十二分な理解なしにはありえないこともよく知っていたので、文学作品に限らず絵画であれ音楽であれ意味を担う記号に拠って立つ作品は文化的特性とその差異の下に味わうのが当然だと心得ていた。だから演奏についても謂わばその土地の郷土料理を味わうつもりでいたわけである。一流のシェフの腕によって蘇る本格郷土料理のローカルな味わいこそが鑑賞の醍醐味の重要な部分であると考えていたのである。その文化圏にしか有り得ないローカルな味わいが濃ければ濃いほど、またその文化的特性、時代的特性が現れていればいるほど聴き応えがあったし、逆に抽象化されて万人の口に合うように口当たりよく調製された演奏は味気なく思われたのである。つまるところ我々にとってはローカルな味わいの裏付けを持たないクラシック音楽なぞはファミレスの料理、機械握りの寿司、大量生産のパン、プロセス・チーズ、インスタント・コーヒー、缶詰、ビールならぬ発泡酒に過ぎず、ないよりはまし(?)だが、うまい本物と比べることは到底出来ないものであった。
そして問題はオーケストラである。ソロの演奏家ならその天才を聴けばいいのだから、スタイルが正統であれ異端であれ、本格派であれ変則派であれ(ずば抜けてさえいれば)さして構わないのだが、オーケストラとなるとそうはいかない。複雑な文化的産物たるヨーロッパ音楽のその根本的な話法やスタイルに対する理解が楽団員に共有され、一個の楽団として統一された様式で奏でることが出来なければ、ちぐはぐで聴いていられないことになる。また、世の中に分かっている人間と分かっていない人間がいるように、分かっているオーケストラと分かっていないオーケストラがあって、分かっていない場合も聴くに堪えない。
日本のオーケストラがつまらないのは前者に因るところが大きい。アイドル・タレントが本格時代劇に出たように一生懸命やっても発声、立ち居振る舞い、台詞回しなどが様にならぬのである。あるべき文化的理解の心棒が体の中にないために形をなぞっているだけの感じが付きまとう。作曲家が問題とした問題の核心を自身の内から出た物とすることが出来ず、むんずとつかむべき内容が遠慮がちな指の隙間から抜け落ちていく。借り物の感じがしないで済むのは武満や大河ドラマのテーマ曲くらいか。
一方、アメリカの大概のオケは後者だ。自信満々だが別のことを大声で話していて、根本的なところが微妙に、あるいはまるっきりずれていても平気なようである。ハリウットやディズニー流の分かりやすい紋切り型が大好きで、味付けが一つきりになりやすい。ロマンチックならロマンチック、ダイナミックならダイナミック、古典に必要な精妙なニュアンスとは無縁である。音の恰幅はいいし見掛けは立派なのだが、全ては万人好みに単純化され中身が絶望的に陳腐なのである。スター・ウォーズやインディー・ジョーンズならいいと思うが、彼らで古典を聴くことは難しい。( SawallischがPhiladelphiaを振ってMozartを演奏した時、実にいい音だったが、全くつまらなかった。弦は機械的に刻むだけで、そこに意味というものが乗っていない。ソロはうまいがうまいだけ。ト短調の悲哀も疾走もなく、ただアメリカのメジャー・オケの名に恥じない立派な音が鳴っていただけであった。彼らは何のために演奏しているのか、ただアメリカの聴衆にイメージ通りの名曲を聴かせるためか。Sawallischのドイツ精神もアメリカのオケに意味をもたらすほど強くはなかったのである。)
逆に、分かっているオーケストラが心を込めると全てがまるで違ってくる。一音一音がつぼにはまり、細部から全体に至るまでそうでしかあり得ないという絶対的な印象をもたらす。あらゆる部分が存在価値と意味を強力に放射してくるのである。Sächsische Staatskapelle DresdenがアンコールでRienziの序曲をやった時、それは完全にオーケストラの血肉となっており、その有無を言わさぬ説得力に惚れ惚れさせられたものである。指揮者とは別に、分かっているオケがそのままその力を見せるとどうなるのか、実に思い知らされた感じであった。
歌舞伎が日本のものであるように、クラシックはヨーロッパのものである。要するにそういうことだ。それぞれ威張る話ではなく、事実としてそうなのである。