3月11日の14時46分に起きた大地震は、およそ「宮城県沖地震の危険」などと言って恐れていた程度をはるかに越える物凄いものであった。東日本全体に及ぶ被害は極めて甚大で、海に近い地域では文字通り壊滅・消滅してしまった町々もある。大地震とそれに伴う大津波の犠牲者は2万8千人を超えようとしている。未だ余震は収まらず、福島の原発事故も収束の見通しが立っているとはとても言えない。4月7日にはM7.1の大余震が新たな被害をもたらし、復旧作業は何日も後戻りしてしまった。余震についてはまだ数年間、厳重に警戒し続ける必要があるのだという。今後半年から数年の間にM8クラスの巨大余震がいつどこで起きても全くおかしくないことが研究者らによって指摘されている。家族も私も幸い今回は助かった。だが、次回も無事であるとは当然限らないのだ。2万8千人程にも及ぶ犠牲者を見れば、実に助かるかどうか、生死の境目は全くの偶然に過ぎないのだと悟らざる得ない。彼らの代わりに私が死んでいても何らおかしくはなかったのである。
震災から一月余り、昨日(4月14日)漸く我が家でもガスが通った。地震の直後に途切れた3つのライフラインは、電気が通るまで3日、水が通るまで1週間、ガスは3月末日という当初の予定が延びていたところに7日の大余震で更に遅れたのである。
今回の地震は震災前に漠然と考えていたものとはまるで違っていた。何とも甘いことに私は、せいぜいM7級の1978年程度の地震がやって来て、その時のように1週間か10日の不便を忍べば何とかなろうかと高をくくっていたのである。心配と言えば、阪神大震災の時のような直下型の地震が来て建物の被害が大きくなることであったが、それもなるようになるさと特に備えてもいなかった。ところが実際に来たのはM9という桁違いの巨大地震であり大津波であった。数百キロに渡ってプレートが破壊され、被害地は東北から関東一円、つまり東日本全域に及ぶ。
その日私は家にいたのだったが、数分間にも及ぶ、まるで掘削工事の現場に居合わせたかのような強烈な揺れは、およそ尋常なものではなかった。揺れの程度は前回1978年の宮城県沖とさして変わらぬようにも、或いはその時の方が周期の短い激しい揺れだったように思われたものの、その長さが全く尋常でなかったのである。一向に止まないものだから、揺れの中で周りを見て思案するゆとりが出てきたほどであった。家の者はリビングの大テーブルでひたすら身を支えており、私は書斎の机に半分乗り上がって、二つの書棚とパソコンを倒してはならじと押さえ続けた。振動のためにパソコンは見ている間に台上を移動し、端からずり落ちそうになる。その度に中央に引きずり戻した。隣の部屋ではスピーカーは言わずもがな、重ねていたラックも、その上のアナログプレーヤーも、その中のオーディオ装置もガラガラ、バタバタと倒れ、飛び出していく。台所では棚という棚から遠慮会釈なく食器類が床に落ちて割れているようだった。無論それが分かっても何が出来るわけでもない。人は無事、建物も無事だったが、家の中の物は、倒れる物は倒れ、割れる物は割れて部分的に大きな被害があった。
震災当日は無論のこと、翌日、翌々日と電気が通った14日の昼まではそもそも何が起こったのか詳しいことはほとんど分からなかった。揺れの収まった町内は、見渡してみれば一見妙に平穏で、そこだけ取り出してみれば長閑な週末の午後と変わらぬようにも思われたが、各家々の内部では瀬戸物やグラスが割れ放題に割れ、書棚の本はことごとく飛び出していたのだ。揺れ始めてすぐに電気は停まっていたのでTVで地震情報を知ることは出来ず、パソコンは強制終了しており、生憎ラジオの電池は切れていた。無論電話も通じるものではない。どこで何が起こったのか知りたかったが、それよりも目の前に片付けねばならない物があり、割れ食器の山があった。暗くなる前に先ずは台所の始末をつけることが先決であった。かくて、隣近所でお互いの無事を確認した後は、各家々取り敢えず夜を迎えられるように、頻繁にくる余震の中、我々は片付けに取り掛かったのである。救急車両のサイレンが鳴り渡り、ヘリコプターの爆音が空に満ちて、いよいよ市中が騒然となったのは間もなくであった。
震災から一月余り、昨日(4月14日)漸く我が家でもガスが通った。地震の直後に途切れた3つのライフラインは、電気が通るまで3日、水が通るまで1週間、ガスは3月末日という当初の予定が延びていたところに7日の大余震で更に遅れたのである。
今回の地震は震災前に漠然と考えていたものとはまるで違っていた。何とも甘いことに私は、せいぜいM7級の1978年程度の地震がやって来て、その時のように1週間か10日の不便を忍べば何とかなろうかと高をくくっていたのである。心配と言えば、阪神大震災の時のような直下型の地震が来て建物の被害が大きくなることであったが、それもなるようになるさと特に備えてもいなかった。ところが実際に来たのはM9という桁違いの巨大地震であり大津波であった。数百キロに渡ってプレートが破壊され、被害地は東北から関東一円、つまり東日本全域に及ぶ。
その日私は家にいたのだったが、数分間にも及ぶ、まるで掘削工事の現場に居合わせたかのような強烈な揺れは、およそ尋常なものではなかった。揺れの程度は前回1978年の宮城県沖とさして変わらぬようにも、或いはその時の方が周期の短い激しい揺れだったように思われたものの、その長さが全く尋常でなかったのである。一向に止まないものだから、揺れの中で周りを見て思案するゆとりが出てきたほどであった。家の者はリビングの大テーブルでひたすら身を支えており、私は書斎の机に半分乗り上がって、二つの書棚とパソコンを倒してはならじと押さえ続けた。振動のためにパソコンは見ている間に台上を移動し、端からずり落ちそうになる。その度に中央に引きずり戻した。隣の部屋ではスピーカーは言わずもがな、重ねていたラックも、その上のアナログプレーヤーも、その中のオーディオ装置もガラガラ、バタバタと倒れ、飛び出していく。台所では棚という棚から遠慮会釈なく食器類が床に落ちて割れているようだった。無論それが分かっても何が出来るわけでもない。人は無事、建物も無事だったが、家の中の物は、倒れる物は倒れ、割れる物は割れて部分的に大きな被害があった。
震災当日は無論のこと、翌日、翌々日と電気が通った14日の昼まではそもそも何が起こったのか詳しいことはほとんど分からなかった。揺れの収まった町内は、見渡してみれば一見妙に平穏で、そこだけ取り出してみれば長閑な週末の午後と変わらぬようにも思われたが、各家々の内部では瀬戸物やグラスが割れ放題に割れ、書棚の本はことごとく飛び出していたのだ。揺れ始めてすぐに電気は停まっていたのでTVで地震情報を知ることは出来ず、パソコンは強制終了しており、生憎ラジオの電池は切れていた。無論電話も通じるものではない。どこで何が起こったのか知りたかったが、それよりも目の前に片付けねばならない物があり、割れ食器の山があった。暗くなる前に先ずは台所の始末をつけることが先決であった。かくて、隣近所でお互いの無事を確認した後は、各家々取り敢えず夜を迎えられるように、頻繁にくる余震の中、我々は片付けに取り掛かったのである。救急車両のサイレンが鳴り渡り、ヘリコプターの爆音が空に満ちて、いよいよ市中が騒然となったのは間もなくであった。