2010/09/04

エリートたる者は




番組で高校生の全国高等学校クイズ選手権の模様を観たが、優勝した開成を始め準優勝の浦和にしてもどこにしても、上位進出した一流進学校の実力の程はなかなかに大したものであった。没落の坂を下り始めているこの日本で、それに抗う力になることができるかどうかはさておいても、彼らのような者たちが将来この国の第一線で活躍する日も遠くはあるまい。確か一昨年も見た記憶があり、その時も大いに感心したことを思い出したのだったが、そこにはエリートたる者に共通する一つの特性も見えたのである。

クイズ的な雑学知識や解答技術は当然だが、決勝に残るような者たちは皆、そもそも良く勉強している。基礎から応用まで、文系、理系、教科、分野を問わずそれぞれ実際に使うことの出来る知識となっているところが見事だった。多くの者が東大、京大を当たり前に志望しているが、受験勉強自体に苦労している様子はさらさらない。彼らには受験も普通の試験と同じ通過点に過ぎないようなのだ。

つまり、彼らにとっては勉強も知識も当然目的なんぞではなく、実に単なる手段だということである。一流アスリートが自身を鍛えるのはそれが目的なのではない。その先の勝負が問題なのである。それと同様、彼らも自分を良く鍛えているが、それは既にその先を見据えているからである。そして自分を鍛える点において何の躊躇いもない。これこそエリートたる者の特長でもあれば要件でもあろう。目的達成のための手段において苦労しないのである。演奏家は楽器が自由に弾けて当たり前、その上でどう解釈し何を表現するかが問題なのである。作家ならば言葉を自由に操れるのは当たり前、その上で何をどう表現するかである。楽器が弾けてよかったとか、言葉をマスター出来て嬉しいとかではないのだ。それらはただの前提に過ぎない。彼らにとって重要なのは常に知識や技能のマスターの先にあるものであって、途中で引っ掛かっていることなぞはあり得ないことであろう。仮に彼らが外交官となって各任地に赴任したら、その都度その先々でどんな言語でも選り好みせずマスターしてしまうことであろう。

そのような者が世の中にはいるのであり、一流進学校にはそんな者が毎年集まって互いに切磋琢磨を繰り返しているのである。その中で更に一流の者と超一流の者とが分かれてくるものでもあろう。さて、それにしても将来のエリートたる者の自分を鍛える点において一切容赦のない姿勢、これは遺伝なのか、才能なのか、果たして環境によるのか、教育によるのか、ひたすら個人的な資質によるものなのか。低徊趣味の私のように手段を獲得する段階で四苦八苦している者がいる一方、もう一方では先の目的のみ見据えてひたすら前に進んでいく者たちが少数ながら存在する。この差は如何ともしがたいものだ。開成や麻布に行ったかつての教え子たちは、さて今どのレベルにいるものだろうか。突き抜けた者はいるか。無論エリートは少数ゆえにエリートなのであり、大勢がそうであればもう特別ではなくなってしまうのであるが。

記憶力、理解力、集中力、持続力、やる気といった能力が鍵であろう。当然これらの能力には個人差が大きい。複合すれば、なお差は大きくなろう。「天才とは努力し得る才である」と言ったのは天才Goetheである。目的と手段が一致したところに生まれるのが天才であろうから、目的に邁進するだけの彼らは天才ではなく秀才なのであろうが、それでも「努力し得る」という特性は全く共通しているようだ。それに従えば後の3つが重要だが、前の2つの程度によって結果はまた更に異なってもこよう。エンジンが同じでも機体が違えばその飛行機の性能はかなり異なってくるわけだから。ただ、経験からしても努力し得る才を欠いてはどうにもならぬというのは見やすい道理だ。燃料のないエンジンに価値があろうか。これまで見てきて小利口なだけといった連中でうまくいった者は一人もなかった。そこそこの努力、苦労なしで行ける範囲に留まって、それ以上に進むことがなかったから。確かに「努力し得る」というのも「才」であったのだ。


さて、TVを視てチラホラと考えてしまったが、一つ確かなのは、本物の連中はこんなことは気にしないだろうということと、私がそうするには奇跡が必要だということだ。全く気に喰わぬことである。


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