2008/07/13

諦めぬ人 Gary Bertini

ケルン放送のシンフォニー・オーケストラと入れたMahler6番明晰精妙な録音を聴いて以来Bertiniには関心を持っていたのだが、その実演に接したのは2回きりである。都響の音楽監督に就任して2.3年目の2000年から確か横浜と大宮で対になったMahlerチクルスが始まったのだったが、その内の横浜のみなとみらいで演奏されたチクルス最初の1番と5回目の5番を聴いたのである。かなり開きがあるが、どちらも休みの日のマチネーで、友人に誘われるまま休日気分で気楽に出かけた演奏会であった。2回共に当日券で入って席はあまりよくなかったのだが(1番の時はやや遠く、5番の時は指揮者を斜め前方から見る席であつた)、NHKホールほどではないにしてもみなとみらいのホールも実に鳴らないホールであった。その鳴らないホールで初めてBertiniの実演を観もし、聴きもしたわけであるが、「諦めね人Bertini」という強烈なイメージはこの時刻み込まれたものなのである。 そして今は亡きBertiniを想う時、特にチクルスがスタートした1番のコンサートのことがありありと思い浮かんでくる。都響は予想以上に酷かったが、小柄で精力的なマエストロには大いに感心したのだ。

当日出だしの印象は残念ながらよろしくなかった。開演時間になったのやらならないのやら、オケの連中は(在京のオケの唾棄すべきいつもの流儀で)いかにもルーチンといった様子で、だらだらぞろぞろとまとまりなく入ってくる。拍手を受けてそれに応えることもなく、各パートも揃わぬうちにてんでばらばらに座り始め、締まりなく、また何の疑いもなくこれまたてんでんにチューニングやらお喋りやらを始める。こんな入場では拍手など出来るものではない。鳴り始めた拍手は当然すぐに止んだ。いったい彼らは楽団としての舞台への登場をなんと心得ているのだろうか。

※対照的に入場が見事なのは旧東独のオケだ。Walter Wellerと来たDresdner Philharmonieなどは特に見事で今でもよく覚えている。時間になると舞台の両袖から順序よく揃って入って来る。拍手を受けながら整然と進み、全員が揃うと客席に向かって晴れ晴れと胸を張り、聴衆に敬意を表すると同時に自分たちに向けられた拍手に応えるのである。客席の拍手は自然に高まり、我々の心の中では演奏への期待も自ずと高まる。コンサート・マスターが誇らか且つにこやかに(また嬉しそうに)客席を一通り見渡した後、着席する。チューニングはその後に始まるのである。そのチューニングも馬鹿みたいにばらばらと締まりなく続けたりはしない。速やかに済ませると後は指揮者の登場を待つばかりとなって心地良い緊張感がみなぎるのである。これは後にGünther Herbigと来た時も同じで変わらなかった。そこに感じられるのは楽団としての自負と誇りだ。音楽家・芸術家としてオーケストラもソリストや指揮者と同じくその場に同様にすっくと立っているわけである。当然登場もそのようにあるべきだということなのであろう。この麗しきステージ・マナーはドレスデン・フィルに限らずStaatkapelle DresdenGewandhausorchester Leipzigも立派に心得ていた。旧西独のオケはそれに準じるが、アメリカのオケはあまり構わず、日本のオケ、特に在京のオケとなると悲しいかなこの麗しきマナーのマの字も感じられぬことが多い。しら~っと入って来て後はそのまま、指揮者が入って来るまで楽団としてまともに聴衆に向き合うことがない。これは私などには大変な心得違いに思えるのだが、どうだろうか。定期であるとかそういったことではなく、基本的な考え方の違いなのか、誇り無く、挨拶無く、実にいまいましい限りだ。

 閑話休題。というわけで、全く期待が持てぬばかりか怒りすら覚えるオケの団員の(いつもの)入場ぶりを見ながら、鳴らないホール鳴らないオケが、湿度の高い鳴らない季節に、いくら編成は大きくてもR. StraussのようではないMahlerをやるわけであるから、これは相当きつかろうなあ…と思っていると、案の定であった。

いざ始まってもそもそも音としてあまりに貧弱で、感覚にも感情にも、頭にも魂にも訴えかけるものをまるで持ち合わせぬ有り様、弦は鳴らず木管は鳴らず、金管と打楽器が鳴るばかりという具合であった。いつ温まるかと待ったが、楽章が進んでも事態はほとんど変わらず、これでは解釈味わいもあったものではない。疲れを知らぬ棒捌きで指揮をとり続けるBertiniもこれでは大変だと隣の友人と顔を見合わせたのものである。

ところがである、普通ならもう半分諦めて、鳴らぬなら鳴らぬままでそこそこそつなく終わらせて、それでおしまいとでもしてしまいそうなところを、何とBertiniは諦めるどころかますますエネルギッシュに振り続けるのである。それも叱咤激励するとか檄を飛ばすという風ではなく、オケが絶望的に鳴らぬことなどまるで知りもしないように平然と、あたかもとてつもなく素晴らしい演奏が繰り広げられているかのようにますます精力的に振りに振るのである。

すると何としたことか、Bertiniの熱とエネルギーに煽られて、こと終楽章に至って遂にオケも熱く鳴るようになってきたのである。 我々は驚いてまた顔を見合わせた。この時Bertiniはいかにも動きやすそうな黒い詰め襟風の上っぱりのようにも見える上着を着ていたのだが、見ているとこの70歳を越えた小柄な熱血漢はフィナーレになって文字通り何度も勢い良く飛び上がったものだ。同じ飛び上がると言ってもBernsteinとはまるで違い、動きは機敏で切れがあり、着地も着地後の動作も至極見事で、まるで旧ソ連のオリンピック体操選手のようであった。何回かの目の覚めるようなジャンプと着地があり、そうしてとうとうフィナーレは見事「熱演」と言っていいものとなったのである。客席からブラボーが飛び交ったのは無論である。私と友人も勿論盛んに拍手をした。

我々は感服、感嘆していた。我々の今目の前にいるのは単なる老巨匠・名匠ではない。百戦錬磨の戦闘指揮官でありバイタリティの塊であった。あれほど救いようもなく鳴らなかったオケを発奮させ、ホールにもMahlerにもBertiniにもまだ十分慣れておらぬために、せっかくのチクルスのスタートがつまらぬ凡演に陥りかけようとしていた絶望的な流れを不屈の意志と力業で押し戻し、遂に見事な手綱さばきで曲がりなりにも聴衆受けする熱演にまで持っていったのである。実に尋常ならざるパワーであった。

この「熱演」は、しかし無論「名演」というのでは全然なかった。内容の凄絶さであるとか意味の深いえぐりであるとか飛翔するイマジネーションであるとか全人的な音楽体験であるとか、オケの理解や力量無しには実現し得ない領域には一歩も踏み込んではいなかったのだが、そんなことはBertini自身が誰よりもよく知っているようであった。拍手喝采に応えるBertiniは、汗を拭くタオルを肩に掛けピョンと指揮台に飛び乗って、表彰式のメダリストが観衆に応えて手を振るように大きく手を振って聴衆の歓呼に応えていたのである。その様子は難度の高い技を決め予定通り高得点をもぎ取った体操選手の爽快さを想わせた。指揮台の手すりに左手でつかまり、半ば伸びあがりさえしながら、高々と挙げた右手を腕ごと大きく振る、白いタオルを肩に掛けた笑顔のBertiniは、どう見ても芸術的成果を実感して喜ぶ内省の芸術家ではなく、厳しい状況下での困難と思われた仕事を力強い采配と不屈のプロ魂で見事にし遂げた現場監督・戦闘指揮官であった。Bertiniに別な面がないはずもないが、その時我々目の前にいて歓声に応えていたのは、必ずあるレベル以上の成功を確実に請け負う仕事人本物のプロフェッショナルであった。

そう思った時、私は確信した。ケルンの放送オケのシェフに就任した時「十年の内にこのオケをベルリン・フィルを追い越すまでにしてみせる」と言ったBertiniがここにいると。


「いやあ、人間、簡単に諦めてはならんなあ」と言いながら友人と私はホールを後にし、そのままビア・ホールに立ち寄った。

「いやあ、それにしても、人間、やっぱり簡単に諦めてはならんなあ」と言いながら我々は「諦めね人Bertini」乾杯したわけであった。

2008/07/09

透徹とは何か?: WandとNDR Sinfonieorchester


ヨーロッパ音楽芸術の現代における一つの到達点を見せてくれたものとして最も強く印象に残っているのは、何と言っても2000年の11月に来たGünter WandNDR Sinfonieorchesterであった。Schubertの8番Brucknerの9番という芸術的には完成された未完成を2曲合わせた此岸から彼岸を目指す円環のようなプログラムで、この時はWand自身HamburgやMünchenでも集中的に取り上げて満を持しての来日公演だったが、高齢のWandが長時間のフライトに耐えて本当に来られるのかどうかは直前まで危ぶまれてもいた。(許光俊など一部の音楽評論家は世界の至宝の命を削らせてはならないと来日反対の要請をしたとも聞いた。)そんな心配はあったものの、共に加減を知らぬコンビである友人と私は3日ある公演の全てを予約し、結局のところ(適当な理由を付けて仕事も休み)初台まで3日間通って、なかなか得られぬ(最早不可能であるかもしれぬ)音楽体験を持つことが出来たのである。

Wandを待つ会場の雰囲気も特別だったが、その演奏も単なる巨匠の名演奏というのとは次元が異なる一つの究極的なものであった。楽団長に付き添われた登場の際の足取りこそ少々危うげだったが、指揮台に立ったWandは眼光の鋭い鶴のようで、吸い込まれるようなホールの真空状態から未完成の第1音が立ち現れ、流れ出した瞬間、今これから聴こうとしている演奏がとてつもないものであるということが否応もなく了解されたのである。「透徹」というものが世にあるとすればこれこそがそれであった。軽すぎも重すぎもせず、一点の曇りも濁りもなく、適正としか言いようのないバランスで力みなく奏された低弦は、純度の高い水がすーっとどこまでもしみとおってくる様であった。研ぎ澄まされていながら神経質にならず、完全にコントロールされていながら人為性の気配が微塵もない。一言で言えば既にして「彼岸」に通ずる音が奏でられていたのである。見ているとWandの普通ならとても見えないような文字通り小指1本のごく小さな動きにもオーケストラは正確に反応していた。(我々は3日ともほとんど同じような1階やや左寄りの11列とか17列とかに座っていた。)Wandが当然行ったであろう厳しい練習を経て、両者の間には感覚と呼吸の共感とでもいうものが起きていると思われた。徹底的に突き詰められた結果、そこにはEugen Herrigelの見た弓道の名人にも通ずる名人・達人の技が生じているようでもあった。


終演後、我々はみな自ずから立ち上がって拍手を送った。後日、CDを買ったらブックレットには客席の様子もあり、私と友人も写っていた。画像の左1/4やや上方に男二人並んで感動の面持ちで放心しているのが我々である。思いがけぬ記念になったなぁと後で話したものである。

2008/07/05

バーニャのパンの店主の一言で考えさせられたこと

今年は入梅も遅く、しかも空梅雨のようでもあり、梅雨らしい雨を経験しないまま真夏を迎えそうな気配である。そんな中ふと一昨年の雨の日の出来事を思い出した。雨の中思い立って、こともあろうか傘を差して自転車バーニャのパンを買いに行ったのだが、店主とのやり取りが少々面白かったので記憶に残っているのである。

一昨年はなかなか明けぬ梅雨で(梅雨明けは8月になった)、その日も激しいというわけではなかったが、それでも腿やら腕やら背中やら(特に腿がひどい)物好きな自転車乗りが濡れるには十分な降りであった。店の横の駐車スペース(置いて3台分だろう)には花が植えられていて普段から庭のようなのであるが、その日は朝からのたっぷりすぎる雨で緑は熱帯雨林的な怪しさを発していた。



さて、その隅に自転車を駐めて、(バサバサと)傘の雫を振り落とし(ブルブルと犬のように)体の雫を掃って、哀れな濡れ鼠の体で店に入ると、昼近くではあったがさすがに客は一人もおらず、奥ではあの店主がパンを焼いている最中だった。

焼きあがったパンのにおいの中、私は豊かな気分で一人ゆっくりとパンを選び(普段食べるライ麦パンはこの間買ったばかりだったから、この日はバーニャお得意のやけに重量感のあるイチジクのパンと後2つばかり小さいのを選んで)「よく降りますね」と差し出した。その時の店主の答えが予想外のものであったのである。

「よく降りますね。」

「すばらしい。」

「ん?」

「すばらしい雨です。」

 


言われてみれば静かな店内から見る外の雨はタルコフスキー的とも言えた。濡れ鼠の客を特にからかう風もなく、おそらくは朝早くから生地をこねたりパンを焼いたりして奥の工房から店のガラス戸の向こうに降る雨を見ていたであろう店主は、そのよく降る雨を、降り込められて静かなその店内でどうやら楽しんでいたらしいのである。蕎麦打ち職人がその違いを言うようにパン職人にとっても雨の日は生地の作りようからパンの焼きようまで当然変わってくることであろう。確かに雨ならばその雨をあるがままに受け容れなければその日のパンは焼けまい。そのことが店主にそう言わせたものと思われたのだが、どうもそれだけではなかった。

小さな店で、自分の信じる好きなパンしか焼かないと思われる店主は「よく降りますね。」「いや、全く。こんなに降るといやになりますね。」とか「早く梅雨が明けて欲しいものですね。」といったお定まりの会話を私の前で見事に断ち切ってみせたのであった。暗黙のうちに自動的に決められた科白を何の考えもなく惰性でなぞってみせることは「会話」ではない。そのベルトコンベア式の自動装置を止められて私は確かにはっとしたのである。

店主(ニヤリとして) 「すばらしい雨です。」

私(ハッとして) 「なるほど。いや、どうせ降るならこれぐらい降ったほうがね。」

店主(いつも通り) 「では、お気をつけて。」

私(ハッとしたまま) 「どうもありがとう。それじゃあ。」

「その思想が行動になるのでなければ『思想』の名に値しない」とは学生時代よく恩師(中年になるまでMünchenにいて、スコラ哲学とユング心理学を研究していた。帰国後も毎年紀要論文を最低1つ書くことを自分に課していた)が口にしていた言葉である。当時私はそれを当然だと思い、我が思想と行動の一致(実はただの気ままな趣味)を暢気に威張っていたのだが、それは実に愚かな楽観であった。実際今になってみれば当時懸命に学んだつもりで我が「思想」と信じ、そう称していたもののいくらも我が「行動」になっていないことが分かるのである。(実際の生活の中では、その指針にすらなっていないかもしれない。"アレテイヤ"も"IronieとHumor"も"Trotzdemの精神"も普段の生活者としての私に対してほとんど無力である。)。逆に言えば、幼少時からほとんど意識することなく習慣的に身に付けてきた行動や思考や感情のパターン、無反省の振る舞いや反応に過ぎないものが我が「思想」の正体というわけであった。(つまりそれは思想ではなかった。私はついに思想を学ばなかった。)

戦前仙台で教えたKarl Löwith が日本人の精神生活を評して、日本人は二階家に住んでいるようなもので、二階は西洋でも一階は完全に日本のままで変わらない(つまりいくら学んでも思想が行動にならない)ことを指摘した。これは「和魂洋才」というような立派なものではなさそうだ。「世間」や「つきあい」や「日々の暮らし」の前に思想があっけなく敗れているさまである。そしてどうやらそれはそのまま私のさま(「ざま」と言った方がよいか)なのである。これは嘆かわしい。

それで結局哀れなばか者のままで、以前と比べてまるで賢くはなっておらぬとFaustのように嘆いてみることでもできればまだしもだが、FaustどころかWagnerほども勉強していない自分を振り返ると正直なところ格好のつけようもない。パン屋の店主の一言から我が思想の敗北が浮かび上がってしまったのである。