ヨーロッパ音楽芸術の現代における一つの到達点を見せてくれたものとして最も強く印象に残っているのは、何と言っても2000年の11月に来たGünter WandとNDR Sinfonieorchesterであった。Schubertの8番とBrucknerの9番という芸術的には完成された未完成を2曲合わせた此岸から彼岸を目指す円環のようなプログラムで、この時はWand自身HamburgやMünchenでも集中的に取り上げて満を持しての来日公演だったが、高齢のWandが長時間のフライトに耐えて本当に来られるのかどうかは直前まで危ぶまれてもいた。(許光俊など一部の音楽評論家は世界の至宝の命を削らせてはならないと来日反対の要請をしたとも聞いた。)そんな心配はあったものの、共に加減を知らぬコンビである友人と私は3日ある公演の全てを予約し、結局のところ(適当な理由を付けて仕事も休み)初台まで3日間通って、なかなか得られぬ(最早不可能であるかもしれぬ)音楽体験を持つことが出来たのである。
Wandを待つ会場の雰囲気も特別だったが、その演奏も単なる巨匠の名演奏というのとは次元が異なる一つの究極的なものであった。楽団長に付き添われた登場の際の足取りこそ少々危うげだったが、指揮台に立ったWandは眼光の鋭い鶴のようで、吸い込まれるようなホールの真空状態から未完成の第1音が立ち現れ、流れ出した瞬間、今これから聴こうとしている演奏がとてつもないものであるということが否応もなく了解されたのである。「透徹」というものが世にあるとすればこれこそがそれであった。軽すぎも重すぎもせず、一点の曇りも濁りもなく、適正としか言いようのないバランスで力みなく奏された低弦は、純度の高い水がすーっとどこまでもしみとおってくる様であった。研ぎ澄まされていながら神経質にならず、完全にコントロールされていながら人為性の気配が微塵もない。一言で言えば既にして「彼岸」に通ずる音が奏でられていたのである。見ているとWandの普通ならとても見えないような文字通り小指1本のごく小さな動きにもオーケストラは正確に反応していた。(我々は3日ともほとんど同じような1階やや左寄りの11列とか17列とかに座っていた。)Wandが当然行ったであろう厳しい練習を経て、両者の間には感覚と呼吸の共感とでもいうものが起きていると思われた。徹底的に突き詰められた結果、そこにはEugen Herrigelの見た弓道の名人にも通ずる名人・達人の技が生じているようでもあった。
終演後、我々はみな自ずから立ち上がって拍手を送った。後日、CDを買ったらブックレットには客席の様子もあり、私と友人も写っていた。画像の左1/4やや上方に男二人並んで感動の面持ちで放心しているのが我々である。思いがけぬ記念になったなぁと後で話したものである。
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