浩治君は見かけはハンサムな色男だが、中身は意外にも頑固な昔気質で、それは演奏を聴いていてもよく分かるのである。ややスロー・スターターで、いよいよ温まって熱してくるにつれて、スマートな外見とは裏腹に、時に一本調子なほど不器用な男っぼさを発揮する。東北人らしく、その情熱は意外なほど暗く重く、武骨に激しく燃え上がる。鍵盤は弾かれ、奏でられるというよりも、文字通り渾身の力をこめた鉄槌のごとく叩きつけられ、颯爽と疾走するというよりも、ありとあらゆるものを巻き込みながら、その一本気な突進をやめることがない。中低域を利かせた、見通せないほどの分厚いハーモニーを好み、色彩が干渉しあい、響きが飽和することも厭わない。響きを幾重にも分厚く重ね合わせながら、右手も左手も決して埋没させておかずに、上から下までもう目一杯鳴らしていくあの響きの好みは、旧ソビエト時代のロシアピアニズムの流れを汲む留学先のブルガリアで培われたものでもあろうが、もともと北国東北の漢(おとこ)として彼の持っていた志向によるところもあるのだろう。
彼の演奏で第一に指を屈すべきものは、だから、ラフマニノフである。あの重いロマンチシズムは彼の本質と実に深く共鳴するところがある。彼の歌い回しはまったく優美ではないので、それらしいメロディーなんぞよりも、響きそのものが幾重にも重なっていき、その分厚い重なりの内から搾り出されるようにして、ついに自ずから立ち現れてくる歌にこそ彼の本当の歌がある。暗い情念、重苦しい憂愁、そこから(それでもなお)メラメラと抑え難く、激しく炎立つダイナミックな歌であり、そこに魂の安らぎもあるのだ。ラフマニノフを聴かなければ彼を聴いたことには決してならない。(この伝で行けばスクリャービンも合いそうな気がする。いつの日か、暗く熱い見事な法悦の詩が聴けないだろうか。)
同じ伝で言えば、(ピアノの詩人)ショパンも愛らしい小品よりバラードのようなものの方がいい。チャーミングなものより、筋立てのはっきりしたドラマチックでダイナミックな暗い情熱が充溢している重いものにこそ適性がある。
(ピアノの魔術師)リストもこれはこれでピアニストとしての腕の振るいどころには事欠かないようで、メフィスト・ワルツなどのエキサイティングな力技は実に大したものだが、こちらはリスト自体が私には分からないのでなんとも言いかねる。昔"Richard und Cosima"という映画で、オットー・ザンダー演じるワーグナーが舅のリストが弾くピアノ曲にうんざりしていたところがあったが、私にとっても抹香臭くなってからは退屈、抹香臭くなる前はただ音と技巧だけで内容の陳腐な意味に乏しい作曲家だ。思うにリストはピアニストにとっての作曲家で、私のような者にはその面白さが味わえないのだろう。
ラフマニノフとの強い親和性、暗く重く激しい情熱、チャーミングなものや軽やかですばしこいものとの微妙な齟齬、エキサイティングな力技は彼の音楽的・精神的土壌が那辺にあるかを明らかにしてくれる。つまり西欧よりも東欧、東欧よりもロシア、ロシアよりも日本にあるのだ。当たり前といえば当たり前だが(良し悪しは別にして)彼の歌い回しや曲の起承転結の捉え方は明らかに日本語の語感を持ち、日本語の発想で扱われている。だから、日本語的な処理によっても損なわれることの少ない曲に彼はその力を余すことなくぶつけることができる。
(ラフマニノフでの偉大なる勝利がその代表だ。)
反面、その元々の言語の語感に強く結びついているもの、ヨーロッパ的教養の伝統に深く根ざしているもの、それゆえ情熱だけではつかみきれないものやエキサイティングな爆発に還元しきれないものについてはいかに全力で挑んでも些か分が悪いようだ。彼が全身全霊をこめて没入しようにも発想や発話のもと、歌の源が異なっている感じがするのである。
(ドイツ物の場合がそうで、そこからはドイツ語の語感が残念ながら私には聞き取れない。バッハならルター派のコラールやThomanerchorの強烈な子音の歯擦音が背後に響いていてほしいし、ベートーベンならドイツ式の弁証法が細部の発想から全体の構造まで否応もなく貫いていてほしい。シューマンならDeutsche RomantikのPoesieやFantasie、Romantische IronieやMagischer IdealismusといったInspirationの源泉が閃いていてほしいわけだが。)
本場物でなければだめなのかとか、日本語を母国語とする者が日本語的演奏をするのが悪いのかといえば、全然そういう話ではなく、私も別にそうは思わない。ただ、好きな作家の作品ぐらいはせめて原語でいつか母国語のように読みたいものだと私が夢想し、聖書研究家が聖書を研究するのにラテン語にとどまらず、ギリシャ語、ヘブライ語、アラム語でも研究するように、演奏家も作曲家本人が彼(女)の母国語で見、聴き、考えたようにその曲を演奏してみたいのではないだろうかと思うのである。内田光子は、歌舞伎をやるなら日本にいるが、西洋音楽をやるならヨーロッパにいると言った。それが生まれた文化圏に音楽と共にいるばかりでなく、言葉と共にいるというのは、実にまっとうな考えだ。音楽言語だけでも簡単ではないのだから、それに加えて言語そのものまでもというのは非常に難しいことには違いないが、彼女は音楽家としては言葉の壁を乗り越えたように見える。
小澤征爾などがオペラを振るととてつもない集中力を聴かせてくれるが、聞こえてくるのはただその集中力とその没入のみで、本来その曲が幾重にも持っているはずのその文化圏特有の重層的、複合的な味わいや言語的なニュアンスが一向に匂い立ってこないというのは、これは一体どうしたらいいものだろうか。ものすごい集中力に感嘆おくあたわざるものがあることを認めざるを得ないものの、それだけでしかないとは。思えば彼の言葉はいつも率直だが、言葉としての複雑さにあまりに欠けていないだろうか。私にはこれは困る。愛好家としてそれを楽しんで聴けるだろうか。
浩治君の演奏会で彼の激しい音の奔流に耳を澄ませていると、私は棟方志功の激しい線と色の奔流を思い起こす。 棟方はゴッホにはならなかったが、棟方自身で並ぶもののない者となった。
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