当時、この散歩は私にとってほとんど日課と言ってよかった。何かのためではなく、ただ純然たる散歩を好んでいたのである。普段は暮らす街を縦横に歩き回り、時に足を伸ばしては丹沢の里山を歩き回り(ついでに大山にも登り)、時には山中湖や河口湖を一巡り一周ぐるりと歩いて、しばしばハイキングなのか、トレッキングなのか散歩の範疇を越えたが、2時間、3時間、或いは5時間を超えてひたすら歩いて飽きることがなかったのである。鬱勃たるパトスと憧憬を道連れに逍遥し、外や内から訪れる様々な印象を楽しみながら、放吟こそしなかったが、いくらでも歩くことができた。今はもう無いが、当時は時間も「在った」と言えばどこかに「在った」のである。
最近は健康のために歩いたり走ったりすることもあるが、それだけのことである。「ためにする」行為というものを長らく高踏派的な理由から軽蔑してきたのだったが、光陰は矢の如くに過ぎ去って、私も最早かつての若者ではない。気がつけば胴回りを気にせねばならぬ中年となって、疲れを知らぬ青春の日々も今は昔である。
ただ散歩のための散歩、改めて純然たる散歩を楽しむには、今度は逆にもっと歳をとる必要があるのかもしれない。
仙台に帰ってきて早4年が経ったのである。今でも時々純然たる散歩を楽しもうと試みてみることはある。昔懐かしの道を歩けば変わったものや変わらぬものの様々な記憶と印象に満ちているのに違いない。ただし昔と違って回想と内省に傾きがちな散歩ではあろう。
"Strandspaziergang"
”ざわめく海原の上に明るい灰白色の空が広がり、ひりひりするような湿気が辺りに満ちて、その塩辛い味が私たちの唇にもこびりつく。おおらかなおだやかな風が自由に自在に開け放しに空間を吹きわたり、私たちはその風に耳を包まれ、頭が少し鈍くなったような感じで、海草や小さな貝殻の散らばった、かすかに弾力のある砂の上をどこまでも歩いていく...私たちはいつまでも歩き続けながら、寄せては返す波が白く泡立つ舌を出して私たちの足を舐めそうにするのを見る。波は沸き立ち、ひと波またひと波と明るいうつろな音を響かせながら跳ねあがっては、平らな浜辺にさやさやと打ち寄せる...ここでもかしこでも、向こうの砂洲でも。そして、このいたるところでこもごもおだやかにざわめいている波の音は、私たちの耳をふさいで、この世のいっさいの音を消してしまう。深い満ち足りた気持ち、わざとすべてを忘れてしまう幸福...。私たちは永遠の懐に抱かれて眼を閉じようではないか!”
"Sausende Öde, blaß hellgrau überspannt, voll herber Feuchte, von der ein Salzgeschmack auf unseren Lippen haftet. Wir gehen, gehen auf leicht federndem, mit Tang und kleinen Muscheln bestreutem Grunde, die Ohren eingehüllt vom Wind, von diesem großen, weiten und milden Winde, der frei und ungehemmt und ohne Tücke den Raum durchfährt und eine sanfte Betäubung in unserem Kopfe erzeugt, - wir wandern, wandern und sehen die Schaumzungen der vorgetriebenen und wieder rückwärts wallenden See nach unseren Füßen lecken. Die Brandung siedet, hell-dumpf aufpralled rauscht Welle auf Welle seidig auf den flachen Strand, - so dort wie hier und an den Bänken draußen, und dieses wirre und allgemeine, sanft brausende Getöse sperrt unser Ohr für jede Stimme der Welt. Tiefes Genügen, wissentlich Vergessen . . . Schließen wir doch die Augen, geborgen von Ewigkeit!" (Der Zauberberg )
この適当な時刻に切り上げて家に帰ることはできなかろう”海辺の散歩 Strandspaziergang”を私も愛しているのだが、実のところ今海辺を歩く機会はほとんどないし、以前もそれほどあったわけではない。
だからこのブログ名は純粋に内面的なものなのである。
今は近所の街や川沿いの散歩に過ぎず、しばしば森(林公園)の散歩なのだが、それでもいざ歩いてみれば、初夏や秋の木漏れ日は素晴らしかったし、風で波打つ田園も花を咲かせる家の庭も悪くはなかった。神社の石段も十字架の付いた教会の屋根も懐かしい修道院の薔薇の這った石塀も或る種思い出と共に思いがけず多くの印象をもたらしてくれたのである。
ここでは、半ばうもれ、半ばくちた、その記憶と印象を綴ってみようと言うのだ。
子供の時分は東照宮の境内でよく遊んだ。鳥居から左にそれて行くと(今は影も形もないが)昔は小さな広場にごくごく小さな遊園地もあった。
森林公園は土の道であるし、どんどん歩くにしても傍らの木々や植物に目を向けるにしても悪くはない。
幼稚園に付属している牧師館である。ほぼ昔と変わらぬ姿で今も在るが、私自身はかつて通っていた時に務めていた司祭様と変わらぬ歳になった。
歩いている時、考えるタイプの人間とぼんやり記憶や印象に身を任せるタイプの人間とがいれば、間違いなく私は後者である。ニイルス・リイネやハンス・カストルプと同様の特性だが、これは「人生の厄介息子(Sorgenkind des Lebens)」に多かれ少なかれ共通する不活発な性質なのであろう。
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