気に入って、有れば必ず求めているのは、
「カンパーニュ」(Miche de campagne aux levain)
これは食事パンとして素晴らしい。もっちりした内部に味わい深い外皮。魅力的な気泡があり、そして風味が良い。店自慢の逸品で見た目の風合いも良く(バーニャの野趣あふれるカンパーニュと違って、かっこうもよい)、切らずに丸のまま求めれば、直径30cm超の立派なたたずまいで、十分お土産としても持っていける。
「レーズンバタークリームが挟まったパン」
これは必ず帰り道にかじることにしている。何といってもぱれっとしているうちがうまい(時がたつと香りがとぼしくなる)。ばふっと丸ごとかじると香ばしい小麦の風味が鼻に抜けてくる。バタークリームもうまい。(バター高騰のおり、キャラウェイ店ではせっかくのこのうまいバタークリームが単なるホイップクリームのようなものになったことがある。これは実にけしからんことであったが、その後元にもどり私は大いに安堵した。)
「キャラウェイ店で3日毎に焼いているという50%のライ麦パン」(Pain de seigle)
なかなか焼いた日に当たらないのだが、当たる当たらないも楽しみのひとつと思って、行く前に確かめたりはしない。所謂Mischbrotだが、ライ麦パンらしいライ麦パンで、その点ではバーニャにまさる。このライ麦パンにはアプリコットの入ったものやビターチョコレートがねじ込まれたバリエーションもあって、チョコレートのものなどはそのままでバッカスの友たりうる。(岩切本店でも焼けばいいのにと思うのだが、泉のキャラウェイ店でしか焼かないというのもそれはそれでわるくはない。向こうにはカフェがある。)以上の3種である。
ここのパンを食べ始めて4年ほどの時が経ったが、泉キャラウェイ店の出店などに伴う諸々の混乱を乗り越えて、現在が一番安定しているのではないだろうか。今なら安心して人にも薦めることができる。買ってきたうまいパンを食しながら、私は満足する。それでもふと不可解な過去が頭の片隅をよぎり、そして、ちょっとした今昔の感も覚えるのである。私はふと思い出す。
一頃は
今ではもうそんなこともないが、一頃はパンの出来映えにも接客にも結構むらがあって、時々「あれっ、どうしちゃたの?」ということも一度や二度ではなかった。客としては当初、ずいぶん戸惑ったものである。前にうまかったパンが次はそうではない。毎度必ず買っていたものがあったものだから、否応なく違いを感じざるを得なかった。帰り道に必ずかぶりついていたレーズンバターのパンなどは、ある時は実に香ばしく麦の力強い香りが口腔内に広がり、心地よく鼻から抜けていったものが、またある時はふがふがの食感ばかりで、およそ風味というものがなくなっていたという具合である。私は帰りの車内で、あったはずの香りを虚しく探し求めたりもした。
いくら呼んでも誰も出てこないこともあった。いないのではない。奥に職人はいて誰かと話をしながら、そして客に気がついていながら、接客は自分の任にあらずを決め込んで一言の断りもないのである。奥には小さな子供とその母親の声も聞こえ姿も見えていて、彼らにもこちらの声が聞こえていないはずはないのだが、やはり出て来ないのである。カウンターにはあきらめて帰ったのであろう、前の客が残していったと思われるパンの載ったトレーがそのまま放置されていた。私は帰るつもりはなかったが(出て来ぬなら出て来させてみしょうホトトギス)、『これはいかんだろう』と思ったものである。やっと出てきた手伝いの中年女性は残されたトレーを見ていぶかしんでいた(「これお客さんのですか?」)。職人もその時当番でないにしても店の子供の母親も何たる不心得か。
昼前に行ったところ、目当てにしていたハード系のパンが全然ない。のっそり出てきた職人にハード系のパンはもうないのかと聞くと、これから焼くんだからまだないよと言う。見れば確かに、さすがに寝起きではあるまいが、「さあてこれから仕事でも始めてみようかな、ふあぁ~」という感じである。 豆腐屋と並んでパン屋は朝が早いもんだと思っていたものだから、これにもやや驚いたものだ。今にもタバコでもふかしそうなその職人の様子から推して、もしかするとこのパン屋はサクライ トシタカとその仲間たちによるイージーライダー的な店なのかもしれないと思ったりもした。『こいつらは自由を求めて集まった仲間たちで、好きなときに好きなパンを好きなように焼くだけで、世の中の要請などは全く気にしていないのに違いあるまい、フランスの衣をまとっているが中身はアメリカンなのだ、連中のメンタリティーはBoulangerieというよりもDinerに近いのだろう、きっとそうだ、そうに違いない』と(上述2つの点もあって)考えたわけである。(もちろんそんなことでは全然なかったのだが、その当時は店主を見たことがなかったのである。)
今なら分かる
私がこの店でパンを買い始めた当時は三度に一度はこんな具合で、いい時はいい(わるい時はわるい)という店であった。これはいったいどういうことであったのか、キャラウェイ店を出店してそれなりに落ち着いてきた今の目で振り返ると、なにやら分かるような気もするのである。キャラウェイへの出店ではその準備のために長いこと本店は完全におろそかにされて、客に対して情報らしい情報も出なかったが、3,4年前当時の味や接客の不安定と昨年の新店オープン準備期の混乱には通底するものがあるように思えるのだ。というのも、あの岩切店の外観からは想像しづらいが、意外にもこの店には前から、この地を飛び出してもっと広い世界に出て行きたいという拡大志向が認められる気がしていたからである。利府のヨークベニマルに卸したり、出張販売を行ったり、他にもどこかの店にでも納めていたのだろうか、納品用のパンケースがよくカウンターの奥に何段も重ねられていて、店そのものの棚が二の次になっているようなことが時々あった。また店の若い母親に接客のうるおいというものが欠けていることもしばしばであった(今は全然違うのだが)。夢があったのか、生活があったのか、愛する家族のためであるのか、将来への不安であるのか、そこにはなんとかして世に躍り出ようともがいている気配が垣間見え、しかしなかなか思惑通りにいかないというザラッとした気配も(利府のヨークベニマルなどであの手のパンが売れるはずもなかったろう)見て取れるようであった。そして特に不思議だったことが、あんな小さな店だというのに、店で店主を見かけたことがないということであった。バーニャに行けばたいてい店主を見かけるし、話をすることも出来る。そこには強烈な個性の一貫性があり、亭主の意志が店の隅々まで貫かれている。ところがサクライ トシタカの岩切のあの店には当時、店主の気配がほとんど感じられなかったのである。自身の名前を冠していながら、そこにすべてを懸け、注ぎ込むという感じでないところが私なぞにはやや物足りなかったのであるが、今思えば新店出店の夢を腹の中に抱え、それ目指して直接、間接にいろいろと飛び回り活動していたのではなかったろうか。そうして、あれこれとうまくいったり、いかなかったりしていたのではないかと推測するのである。店主にはここだけにかまけてはいられない、他にやることがあるという気の離れがあり、夫人には不安があったのではないかと想像する。そうでなかったら、あんな味や接客のむらが、またあんな職人の態度があるはずもなかったろう。
となると、あらためて昨年のキャラウェイへの出店はまさに待望のことであったろうし、念願であっただろうということも分かるのである。オープンに向けて本店の方が完全にお留守になったという(普通に考えれば不手際も)、そう考えれば理解できる。スタッフがそろい、キャラウェイ店がめでたくオープンし、(ハード系のパンを求める客層の幅が岩切とは比較にならぬ)高森の地に足がかりを得て夢は実現したのである。もしかするとこれはまだもっと大きな夢の一環でしかないのかもしれないが、それでもこの一歩の意味は大きい。踏み出せたのとまだ踏み出せずにいるのとでは、客観的な状況としても当事者の気持ちとしても雲泥の違いがあろう。オープンから数ヶ月を経てそれなりに軌道にも乗ってきて(初めのうちはそこの窯に慣れていなかったのか、スタッフが不慣れだったのか、全然違った姿のクロワッサンが並んでいた。今では本来の姿である)、それにともない岩切本店の方もまたいい感じに落ち着いてきたように思える。全体に以前よりもゆとりがあって、心地よい雰囲気が感じられる。この間は、実に初めて店主の姿を本店で見ることができた。
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勝手な推測であるが、もろもろの件を考え合わせた私なりの解釈ということである。正しいかどうかは別にして、当時戸惑い、それでも今日までそのパンを食べ続けている自分のために一連の不可解さを解いてみる必要があったわけだ。1つ言える心得は、初めて聴く演奏家を聴く時の心得と同じである。つまり、1度だけで判断するべきではない。少なくとも2度は耳を澄ますべきだ。あり得るかもしれない可能性に耳を澄ますべきであろう。それでよければ聴き続けていって損はないのではあるまいか。
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