2009/01/24

Buddenbrook翁のつぶやき3

„Der Mönch am Meer"(von Caspar David Friedrich)

再び承前
さて、どうすればいいのか。とどのつまり、認識のどんづまりへと立ち至るわけである。その点においては、
老Johann Buddenbrookであれ、
「奇妙だ…奇妙だ」
"Kurios! Kurios!"

Faustであれ、
「さて、とっくりとわかったのが、人間、何も知ることができぬということだとは。思えば胸が張り裂けそうだ。」
"Und sehe, daß wir nichts wissen können!
Das will mir schier das Herz verbrennen."

名だたるRomantikerたちであれ、

「純粋に生じたものは謎だ。また
 歌にもこれを解き明かすことは許されない。」
"Ein Rätsel ist Reinentsprungenes. Auch
  Der Gesang kaum darf es enthüllen." (Hölderlin)


「芸術は自然と人間との間の媒体として現れる。本源的な模範はあまりにも壮大で、またあまりにも崇高なので捉えることができない。人間の業であるその模写こそは力弱き者にいっそう身近なものである。」 (C. D. Friedrich
何ら変わるところがないように思われる。つまり、行き着いた到達地点から先は結局分からずじまいなのだ。しかも、その限界地点にはあまりにも早く到達してしまうのである。人により鋭鈍の差こそあれ五感という感覚器官の制約があり、第六感は不確かであり、それらを超える認識器官はいまだ持ち合わせておらず、言語だとてどこまで当てにできるものか。
 「私の言語の限界が、私の世界の限界だ。...語りえぬものについては、沈黙せねばならない。」
"Die Grenzen meiner Sprache bedeuten die Grenzen meiner Welt. ...Wovon man nicht sprechen kann, darüber muß man schweigen." (Wittgenstein)
21世紀初頭の我々にしたところで、宇宙や原子、脳や遺伝子その他諸々についてかつて考えられなかったほどの知識を得たはずだが、一寸先の未来すら見通せず(見通せると称する人もいるが)、生と死の意味を知らない(知っていると称する人もいるが)。「そもそもそれは何なのか?」という根本的な問についての解答力となると、いっこうに上がっているようには見えないのである。ものの「仕組み」や「成り立ち」、「現象」についての理解がいくら増しても、その「正体」、その「意味」となると、我々が持っているのは多種多様なただの「解釈」であって、絶対の「認識」では全然ないのである。

それにしても、どんづまりにとどまっているというのは決して愉快な状態ではない。有限の人間であれば、その知覚や認識力を越えた「不可知」なものに対する「不可解」という状況は、その始まりの時から当然の運命であったろうけれど、それを何とかしたいというのも当然の欲求であったろう。そのものの正体や本当の意味を知り得ないという絶対の認識の不可能性を前にして、別に気にならないという立場もあるが、気になる場合には、はて我々の取り得る態度は大まかに4通りほどあるだろうか。

1.宗教。
2.と3.の要素を持つ場合もあるが、おおむねなじみの態度だ。祈りや観想、修行の先に神の国や悟りの世界が開けるかもしれない。現代では最早主流ではありえないにしても、人間の在りようとして本来の正統派といえば実はこれであろう。盲信や狂信でなければ、これはこれで十分納得がいく態度だ。
2.認識の限界内で有限な存在である人間としての最善を尽くすとともに、その分を守る。
2.は堅実で実際的な態度だ。限界内で最善を尽くすというのは立派な態度であろう。そもそも限界内の事柄であれ全てを知り得ることは不可能なわけだから、限界外のことに先走って手を伸ばすというのはこらえ性のないことでもある。
Kantは人間の知性が主権を持つ現象世界と、科学的探究を免れる実体の世界との間に越えることのできない境界を設定した上で、現象世界の確定自体が終わりのない旅であることを(意外にも詩的に)語っている。彼の言葉を読むと哲学が立派な男の仕事であることが感じられる。
「我々はただ単に、純粋な悟性の国を遍歴し、入念にその各部分を考察したというにとどまらない。測量もし、おのおのの事物がそこに占めるべき場所の決定もしたのである。しかしこの国はひとつの島であり、しかも他ならぬ自然がそれを不変の境界の中に閉じ込めてしまった。それが"真理"の国なのだ(何という魅力的 な言葉か)。それは仮象の場である広大な荒々しい大洋に囲まれている。…この新しい国は、そこに心を奪われた熱狂の旅人を絶えず失望させながら、彼を冒険に誘う。旅人はもはや決してこの冒険から離れられず、しかも決してその冒険を成し遂げることもできずに。」
3.認識の限界の突破を試みる。
ロマン派は失敗したわけだが、古代から現在まで脈々とこの伝統は途切れることなく続いていることであろう。秘教や神秘主義である。彼が説くようにして真に超感覚的世界の認識の獲得が有り得るのであれば、Rudolf Steinerは1つの希望だが。
4.背後の意味を否定する。
Nietzscheだ。
「どうすればいいのか」という観点から 4つに1つを選択するとすれば、どうであろうか。成熟した人間ならば2.であろう。いまだ夢想家である私は3.であろうか。

Buddenbrook翁のつぶやきから、思いがけず気になったのは以上のようなことである。


s.Buddenbrook翁のつぶやき1(2009/01/18)

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