2009/01/18

Buddenbrook翁のつぶやき1

どのページを開いても楽しく読める作品というものがある。彫琢された部分部分はどこも見事で、細部まで的確な描写が嬉しくなってくるのである。私にとっては、例えばThomas Mannの『ブッデンブローク家の人々- ある家族の没落』 (”Buddenbrooks - Verfall einer Familie”)もそんな作品の1つだ。このクリスマスに、改めて制作された映画 (『ブッテンブローク家の人々』の映画化は2度目か)がドイツで一斉に公開されたというニュース を耳にして、「おお、そう言えばそうだった!」と久々に我が愛読書を思い出し、微かに積もった埃を「フーッ」と吹き飛ばしてみたのである。(埃の積もった愛読書というのもどうかと思うが、愛読書にも人生のその時々における持ち回りというものがあるだろう。)

さて、そうして適当に開けたページを気の向くまま楽しく読んでみたわけだったが、それは丁度、老ブッテンブローク最期の場面(第2部の第4章)であった。作品的には、その死をもってヨハン・ブッテンブローク商会の良き栄光の時は満ちて、いよいよ長い没落の季節の端緒が開かれたのであったが、それ自体としても些か気になるところがないわけではなかった。それは、長年の連れ合いを亡くしわずか2ヶ月を置いて自身も逝くことになったブッテンブローク翁の何度も繰り返されるつぶやきである。死の床にある夫人を看取り、更にそれからお迎えが来るまでの2ヶ月間、老人は事あるごとに「奇妙だ…奇妙だ…」 Kurios! Kurios! とつぶやき続けるのである。快活で精力的な実際家、現世に自足した世俗の人が、伴侶の死というものをきっかけに実人生から奇妙に切り離されて、突如としてとらえどころのない「生の根源的な不可解さ」の前に投げ出されるのである。


どこまで分かれば真に分かったと言い得るのか、或いは分かることはないのか、それがずっと気になっていた。今でも気になっている。昔「曰く不可解」と書き残して華厳の滝に飛び込んだ旧制一高生がいたが、私も(飛び込むつもりはないが)「不可解」とつぶやくことが少なくないのだ。その頻度は減ることなく(寧ろ増しているほどで)、今や「奇妙だ…奇妙だ…」とつぶやき続けた老ブッテンブローク並みである。


19世紀的実証主義の実際家として現世に自足してきたブッテンブローク翁だが、実際家故に理解不能なものを前にしてなすすべがなかったものであろうか。運命の傾斜と没落の予感、どこから来てどこに行くのか知らず、定かならぬ我らが生と死、諸行無常の不条理を前にして突如として根源的な「不可解」の念にとらわれてしまったのであろうか。だが、私がここで問題にしたいのは、自らが信じ、拠って立つ人生の基盤が、伴侶の死という1つの不条理体験をきっかけにぐらついてしまい云々という月並みな原因の分析ではない。そうではなく、老人が陥って結局逃れることのかなわなかった「根源的な不可解さ」そのものの方なのだ。周囲を見渡して、この世界を解すべからざるものであると感じる感覚、それに伴う感情、解すべからずという認識から来る諦観、そしてそこからの跳躍と脱却、或いは解放と解決、或いは強行突破である。




「この世界の奥の奥で全てを統べている力を知りたい」と望んだのがGoetheFaustである。しかし、初めにFaust自身が嘆き絶望していたように、通常の学問をいくら修めたところで願いはかなわず、それではとすがった魔術によっても究極の認識には至ることがなかった。

はてさて、己は哲學も
法學も医學も
あらずもがなの神學も
熱心に勉強して、底の底まで研究した。
さうしてこゝにかうしてゐる。氣の毒な、馬鹿な己だな。
その癖なんにもしなかつた昔より、ちつともえらくなつてはゐない。
マギステルでござるの、ドクトルでござるのと學位倒れで、
もう彼此十年が間、
弔り上げたり、引き卸したり、竪横十文字に、
學生どもの鼻柱を撮んで引き廻している。
そして己達には何も知れるものではないと、己は見てゐるのだ。
それを思へば、殆ど此胸が焦げさうだ。 
Habe nun, ach! Philosophie,
Juristerey und Medicin,
Und leider auch Theologie!
Durchaus studirt, mit heißem Bemühn.
Da steh’ ich nun, ich armer Thor!
Und bin so klug als wie zuvor;
Heiße Magister, heiße Doctor gar,
Und ziehe schon an die zehen Jahr,
Herauf, herab und quer und krumm,
Meine Schüler an der Nase herum –
Und sehe, daß wir nichts wissen können!
Das will mir schier das Herz verbrennen.
無論、その後Faustは知っての通り、むなしい思弁的な認識ではなく、善も悪も迷いも過ちもひっくるめた人間的な懸命なる行為と建設的な活動の中に望んだもののもうひとつ別の(偉大で真実なる)を見出すわけだが、彼のパトスは行為者Faustの中に昇華し解消しても、認識者Faustが知りたいと望んだ問そのものは相変わらず残っているのである。

  世界の奥の奥で全てを統べているものは何か?
一體此世界を奥の奥で統べてゐるのは何か。
それが知りたい。そこで働いてゐる一切の力、一切の種子は何か。
それが見たい。それを知つて、それを見たら、
無用の舌を弄せないでも濟まうと思つたのだ。 
Daß ich erkenne, was die Welt
Im Innersten zusammenhält,
Schau’ alle Wirkenskraft und Samen,
Und thu’ nicht mehr in Worten kramen.
  生とは、また死とは何か?

  人間とは?

  樹木や星々、光や風、自然界が描く諸々の象形文字とは結局何であるのか?

我々はそれらの解を無数に知っていると同時に何も知らないのである。



この点、私は初期のロマン主義者、Ludwig Tieckの盟友、独創的なWilhelm Heinrich Wackenroderに共感を覚える。この芸術宗教の開祖とも言える夭逝の夢想家は、わずかな著作中の主著といえる芸術評論集『芸術を愛好する一修道士の心情吐露』 (”Herzensergießungen eines kunstliebenden Klosterbruders ”)の中のテクスト「2つの不思議な言語とその神秘的な力について」(”Von zwei wunderbaren Sprachen und deren geheimnisvoller Kraft ”)においておおよそ次のようなことを述べている。
造物主は、地上の事物に名を与え、それを所有することを人間に許してくれた。そうかといって"人間の頭上に舞う目に見えぬもの"を人間界に引き下ろす力まで与えてくれたわけではない。しかし、人間は、自然の言語と芸術の言語という神の2つの贈物によって"天上の事物"を理解出来てもよいだろう。ところが、実を言えば、これら2つの不思議な言語のうち前者は神によってしか話されることはないのであって、揺れる樹木や雷、渓谷や河、草原や岩場といったものを賛美するにしても、それが何であるかは我々には分からない。それゆえ、真理のこれら真正な証人に対して我々に出来るのは、ただ謙虚に崇拝することよりほかないのである。
ロマン派の中でも慎ましくも誠実なWackenroderらしい立派な見識ではないか。合掌し崇拝するというのも1つの解には違いない。だが、依然として問そのものは残っているのだ。

につづく

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