2009/05/23

自転車通勤とGiant Seek R2 : 初めてのパンクとバーエンドの取り付けなど


ゴールデンウィーク最終日の6日、朝の運動と思って自転車を漕ぎ出したのだが、途中何やらハンドルに違和感を覚えたのである。ふわふわした奇妙な感触に「あれっ」と思うと、即ちパンクであった。不心得な私はパンク修理キットも予備のチューブも携行しておらず、携帯ポンプの備えもなかった。ただ幸い我が愛車を求めた自転車店のすぐ近くである。開店までわずかに待てばいいかと店の前までいったのだが、あろうことか或いは当然かゴールデンウィーク中の休みであった。開くのは明くる日とある。次の日まで待つこともできないので、少し離れた別の店まで、パンクした前輪をかばいながら、慎重に押していくことにした。


さて、10時の開店まで、近くのパン屋のテラスに座って焼きたてを1つかじり、コーヒーを飲みながら待つこと約1時間である。


この間に何やら、先日来密かに気にかかっていた問題が頭の中で妙に疼きだした。

朝の通勤時、私は毎度、なぜだかその気になって目一杯こいでいるのだが、そんな高速巡航時、フラットバー・ハンドルだと自然な前傾姿勢を続けるのがどうにもしんどいのである。やってみるとすぐに分かるが、鉄棒のいわゆる順手状態で深く前傾すると、手首は反り、肘は捻れ、首は肩口に亀のようにめり込んで、手から頭にかけて上半身はかなり不自然な負担を強いられる。大袈裟に言えば腕立て伏せで半ば突っ込んだままの体勢になるわけで、この負担はただ肩や首などにコリと疲労をもたらすだけではない。上半身の負担が全身の適正なバランスをスポイルし、駆動部であるところの下半身の円滑な回転運動を妨げて、あるべきパワフルでスムーズなペダリングをも微妙に損なうのだ。

原因はと言えば、何のことはない。これひとえに「順手だから」で、これもやってみればすぐに分かるが、手の握りを ドロップ・ハンドルでのように縦にすればたちどころに解決してしまうのである。握るこぶしが縦で、その幅も広すぎず適当ならば、深い前傾姿勢をとっても、ごく自然に手首から肘、肩、首まで上半身が無理なく丸まって、変にのめることなくゴム鞠のように上手く身が収まるのだ。猫背に丸まりながらも逆に伸びやかな感じで全体にストレスがない。人体の骨格上、当然といえば当然なのだろうが、我が身のこととなればこの差は大きい。ぜひとも何とかしたいところである。高速巡航に適した前傾姿勢をとるために、これまではハンドル位置を下げることでどうにか調整してきたのであったが、もう少し直接的な対策が講じられるべきだと思われてきた。

抜本的な解決は、これも何のことはない、ハンドルをドロップ・ハンドルに変えてしまうことだが、しかしそれではクロス・バイクを選んだ意味が問われる。それなら初めからシクロクロス・バイクを買えばよかったのだ。実は、正直そんな気も起きないではなかったが、上半身を起こして楽に乗る分には、また街中で小回りも必要とされる分には、やや幅広なフラットバー・ハンドルのクロス・バイクこそ扱い易く適当なものであることも確かだ。それにそもそも我が愛車は既にそこに在るわけである。朝には加減を知らぬ私にしたところで、帰りには買い物で荷物も背負えば、背を伸ばしてのんびりも走るわけで、クロス・バイクならではの快適さを捨てぬままに、と同時に朝のギリギリの高速巡航性能を上げるために「縦握り」も実現したいわけであった。 自転車屋の開店を待つ間、私はチーズパンをかじりながら、どうしたらいいものかと思案した。



パンク自体はどうやらいわゆる「リム打ち」というやつであった。穴が開いていたのは1箇所であったが、隣にもかすかに痕跡が見つかった。空気圧には気をつけていたつもりだったが、それ故にかえって油断していたものであろう。とりあえず朝の通勤時でなかったことに改めて胸をなでおろしたものの、今後はやはりパンクの可能性というものを頭の隅に留めておく必要があるのだろう。だが、現実に時間の限られた朝の出勤途上で微小な穴を見つけて修理することは不可能であるから、修理キットではなく、交換用の予備チューブとポンプの携行ということになるのであろうか。しかし、道端でのチューブ交換というのも朝はやはり困難である。持っているだけで結局使えぬという確率の方が高そうである。はて、どうしたものか。"Memento mori."ならぬ"Memento punctum."というわけだが、この世に生きる人間の心得として死を想うことがなかなか難しいように、自転車通勤者として常にパンクを想うというのもこれは些か煩わしい。夜会のエナメル靴のようなロード・バイクならいざ知らず、普段履きのスニーカー、或いは練習用の運動靴のようなクロス・バイクであまりこの手のことを気にしたくはないのだ。
というわけで、今回は結局、通勤時のパンク問題の具体的な解決策については保留・棚上げとしてしまった。

だが、バーの握りの問題は解決しなければならない。パンク修理中、店内を歩きながら、長めのバーエンドをエンド側ではなく内側に付けるのはどうであろうかと考えた。エアロバーまでいくと少々なんだが、適当なバーエンドなら大袈裟になりすぎることもあるまいと。

というわけで下のようになった。BBBのバーエンドを内側に付け、それに伴いブレーキや変速レバーの位置の問題からグリップをSERFASの締め付け式のものに交換した。 色は店に青がなかったので、ワンポイントもよかろうと赤にした。

アカベコ号と命名した。

或いは時々「せんとくん」と呼んでいる。



我が愛車Giant Seek R2が意外な趣をかもすようになったのは想定外だったが、高速巡航時の性能アップという当初の目的は見事にかなえられた。目一杯こいでいる時の身体の負担は感覚的にはほぼ半減したと言ってよい。余分な負担が少ないものだから、いくらか乳酸もたまりにくいのか、高速巡航距離も増した。一方、走行後の疲労は減ったのである。これは正解であった。

アカベコ号改めRoter Ochsen(赤牛=若き血潮)号とする。


s.自転車通勤とGiant Seek R2のその後 (2009/04/28)
自転車通勤の新たな展開 (2009/02/21)

2009/05/18

人はパンのみにて生くるにあらず:半日断食健康法とにんじんジュース

健康オタクではないが、生活習慣病に留意すべきは現代に生きる中年男子の心得であろうから、不惑を越えてからは私も、少々心身の健康には気をつけるようにしている。若い頃は健康に頓着することなどなかったし、むしろ軽蔑するほどの気でいたのだったが、いざ中年となってみれば、たとえ身じまいの一つとしてだけでも気を配ってしかるべきかと考えを改めた。既に些か怪しい頭の方はさておくとして、身体上大いに影響を及ぼす「生活習慣」と言えば、まずは「運動」と「食生活」の二つであろう。というわけで、前者について言えば、休日の散歩だけでは不足だろうと始めた自転車通勤、並びにジョギング、ウォーキング通勤は5年目をむかえ、後者について言えば、全くひょんなことから「半日断食健康法」なるものを始めて3年目に突入し、最近ではついに手作り「にんじんジュース」を飲み始めた。

さて、健康の要件としては「運動」、「食生活」の両者とも車の両輪のごとく重要なものに違いないが、このところあれこれ振り返るに、まず先に指を屈すべきは「食生活」の方であろうかと思われてきた。「人間とは食うところの存在である。」"Der Mensch ist, was er ißt."(Feuerbach)という有名な言葉もあるし、そもそも毎日毎日、何年(何十年)にも及ぶという事実を考えただけでも事の重大さが知れようというものではないか。オーディオマニアでオーディオの電源に気を遣わぬ者はいないし、レースでマシンの燃料に気を遣わぬ者もいまい。食べ物は人間にとって、言ってみればオーディオの電源であり、マシンの燃料に相当するものだろう。あの灰色の脳細胞を養うエルキュール・ポアロも食べる物の影響について言っていなかったろうか。何をどれだけ食べるか、或いは食べないか、そしてそれをどのように食べるか、或いは食べないか、文字通り我らが血や肉となる、体に直接入れるものの質と量の問題は決して小さな問題ではあるまい。内実は「不惑」に遠い私だが、食生活の健康に及ぼす影響の重大さについては、今や惑うことなき確信となるに至った。(裏を返せば、つまり、少々の無理や無茶などものともしなかった青春の黄金の日々は過ぎ去ったということである。友と好きなものを好きに飲み食いして一向に平気だった我がアルカディアは遠く彼方に霞んで、残念ながらいまや、しかるべきメンテナンスを怠ればそれがそのまま我が肉体にはね返ってこざるを得ないのである。)

ならばというわけで「半日断食健康法」なのであるが、これは夕食を食べたら消化から排泄までのワンサイクルに必要な18時間の間はものを食べず、それによって胃腸の休息と老廃物、宿便の十分な排泄を図り、血液の清浄化、腸内細菌叢の健全化を進めて体全体の健康を実現していく健康法なのである。2年半ほど前、当時何気なく目にしたまぐまぐの案内メールの中に 「一日二食健康法」なるものを紹介しているメールマガジンがあって、それがちらと目に付いたのがことの始めなのだが、当初はたまに耳にする朝食抜きダイエットの類かと思われた程度だった。だが、その発行者のサイトを見、さらにもう少し調べ てみると、この一日二食健康法の元は、(今は亡き)甲田光雄なる大阪の医師が提唱している「断食療法」、「生菜食健康法」、「少食健康法」であり、本来は難病根治のための根本的にはかなり過激な食事療法なのであった。

「療法」であるから、朝食を抜いて後は普通に間食を戒め、バランスよく食べて腹7・8分目を心がければよいといった常識的なものでは全くなく(それもあるにはあるが、それは実にほんの序の口に過ぎず)、最終的には食べる二食も完全なる玄米"生"菜食を要求する。つまり、食べる玄米は当然生のまま、動物性のものは口にせず、わずかな豆腐の他は青汁状にした生の野菜類ばかりを毎日食べて、総カロリーも1日約900~1200キロカロリー程度に抑えるという普通の糖尿病食など寄せ付けぬラジカルなものであった。(もっとも私は知らなかったが、これはこれで知る人は知っている結構有名でもあれば実績もなかなかに優れた食事療法であったらしく、書店に行けばその著書は何冊も並び、賛同者、信奉者も少なからぬもののようであった。)普通に考えればかなり厳しいその内容であるが、本来はただの健康法やダイエット術ではなく、難病克服の治療法として考案工夫されたものであってみれば、その由来からして当然といえば当然なのかもしれなかった。

健康のためとは言え、特に病気があるわけでも、体調が悪いわけでもなかったので、無論、そこまで厳しくやるつもりはなかったのだが、物好きにも「まずは」と買い求めた何冊かに示された複数の体験記等を見て私としても改めて「おっ」と思わないではなかった。難病克服者以外に、健康法やダイエットの延長線上でそれを実践して、驚異的な体力向上と頭脳明晰を獲得した者が少なくないようなのである。世に健康法や美容法などこの手の話には眉唾の類も数知れぬわけだが、それでもこれはこれで十分に興味深いことではあった。この健康法は他の多くのものとは違って、言ってみれば、永い人類の歴史の中で栄養の過剰と過剰な消費に陥っている現代という時代にプロテストする謂わば「マイナスの健康法」である。それだけでも価値があるが、生菜食、少食、断食を通して、疲れを知らず、意識は研ぎ澄まされ、睡眠も短時間で足りて、免疫力が向上して病気をも知らず、ついには超感覚的な能力すらも芽生えて、なんと霞を食って生きる仙人なみになるのである(らしい)。トンデモ話と片付けてもいいのだが、試そうと思えば何が要るわけでもなく、気持ち一つですぐにでも試してみることが出来るというのがよかった。物は試しで、まずは少々の真似事から始めてもいいのではなかろうかと思ったのである。常識的な現代医学や栄養学から見れば不合理な数々の結果が、同じく不合理な私の心の琴線に触れたというわけである。

ついでに言っておけば、その頃は我が腹回りがやや怪しくなっており、早急に何かした方がいいという気配であったということもある。もともと生野菜は好きだし、それに半日断食が要求する18時間といっても、夕食を夕方6時に食べたならば、後はただ翌日の朝食を抜いて、お昼になってから復食というおおよその勘定であったから、これも実際上さほど困難なものとも思われなかった。今は昔の高校時代、弊衣破帽の旧制高校生ではないがKantに憧れて朝食を早朝の紅茶とビスケット数枚にして以来、いわゆる朝食らしい朝食からは長らく遠ざかっていて、学生時代この方ほとんどコーヒーとライ麦パンをかじるだけの朝食にしていたから、この朝食抜きの生菜食を中心にした半日断食というものには全く抵抗を覚えなかったのであった。

というわけで、以来、できる範囲で半日断食に1日断食を交え、気が向けば1週間のにんじんジュース断食を行ったり、山あり谷あり、紆余曲折、脱線を経ながらも時に熱心、時にゆるく玄米"半生"菜食、プチ断食健康法を試みてみたりしているのである。今日まで約2年半が経過したのだが、当初考えたとおり朝食抜きの半日断食自体は特に苦にならなかった。週1回を目安にしている1日断食も同様である。1週間のジュース断食はまだややへばるが、生玄米粉の味やミキサーで作る青汁、ジューサーで作るにんじんジュースはなかなか乙なものである。

ただ勿論、パン好き・アイス好き、物好きの身として「完全玄米生菜食」、「完全少食」とはいかず、

しばしばパンを喰らい、
しばしばアイスを舐め、

ナチュナル・ハイジーンの果物食だの、

石原結實のにんじんジュース健康法だのも折衷して、

西式健康法ゆずりの温冷浴だの背腹運動、金魚運動や毛管運動といったへんてこ運動もしていないので、
純正甲田流健康法とは全然言えないのだが、ほぼ肉食からは脱して半日断食自体は習慣化した。仙人には遠いが、おおむね体調は快調で、健康診断の数値は優等生なみに改善したのである。

BMI21を適当とする(通常は22)甲田光雄式の計算でいくと(身長〔m〕×身長×21)私の適正体重は60kgを少し越した程度になる。そうなると学生時代よりも少ないのだが、こんな感じならば物は試しをそれまで続けてもいい気もしている。60kgではやや痩せすぎの感無きにしも非ずだが、それはそれで悪くないかもしれない。サイクリング、ジョギングがますます楽しめ、その上疲れを知らず、なおかつ頭脳明晰ということであれば、なんのなんの私もまだまだということになるわけである。仮令そううまくいかずとも、少なくとも(私同様、物好きが多い)旧友たちへの話の種になることは確かだ。


「人はパンのみにて生くるにあらず」"Der Mensch lebt nicht vom Brot allein, (sondern von einem jeglichen Wort, das durch den Mund Gottes geht.)"というのは真実だが、食べるパンとその食べ方によっても生は大いに異なってくるようである。