2008/05/29

趣味のAudio


今の時代「ご趣味は?」と面と向かって尋ねてくる人もいないが、万一尋ねられた時のために「オーディオ」というのも応えの1つとして用意している。我がオーディオ遍歴も20数年に及んで、かつての神奈川時代を過激な疾風怒涛時代とすれば、今は落ち着いてまずまずの収穫を楽しめる古典期に至ったようでもある。もっとも、この平穏がいつまで続くかは心もとない。

趣味のオーディオの恐ろしいのは「際限がない」ところである。その人間の欲望の際限のなさに比例して、「これでいい」という終着点は遠のくばかりという仕組みになっている。極端なことを言えば「朝満足していても夕には更なる欲がわいて来る」という具合で、「朝聞道、夕死可矣」という孔子の心情には遥かに遠いと言わざるを得ない。

新たな欲がわいて来た時にどうするか。大抵の愛好家はそこで折り合いをつけることはまず出来ない。つまり、何かせずにはいられなくなって次のうちのどれかをする。

1.セッティングを変える。

2.アクセサリー類で調整する。

3.ケーブルその他周辺装置を変える。

4.機器本体を変える。

5.電源環境を強化する。

6.部屋の音響環境を整える。

7.家を改築する。

いずれにせよ何らかのことをするのであるが、その都度機器・装置類を取っ換え引っ換えしていたのでは、いかんせんきりがない。ショップの視聴室ならばいざ知らず、暮らしの中のホーム・オーディオとしては実際的でないし家族の顰蹙を買うことも避けねばならない。となれば、何とかいい策を考えねばならない。

先ずは土台とするに足る基本機器を中心に据え、据えたならば後は(あまり)迷わず、電源土台信号経路等オーディオの優先順位に従って発展的・段階的に積み上げてマイ・オーディオを完成させていくというのが賢明な方法となる。その過程で目指す音の方向性を崩さぬように基本機器をモディファイ或いはアップ・グレードする。最初の基本機器の選定は慎重に行わねばならないが、後は余裕を持って計画的にオーディオ・ライフを送っていくことが出来る(?)というわけである。(この際「オーディオ」という趣味が「賢明」なものであるかどうかはおいておく。)

しかしながら、この賢明なる方針に従うにしても問題がないわけではない。オーディオの世界では平地の健康な世界に比して金額の単位が1桁違う。Thomas Mannの『魔の山』"Der Zauberberg"では、有閑療養患者たちが集う国際サナトリウムBerghofで「数え得る時間の最小単位は1ヶ月」(Unsere kleinste Zeiteinheit ist der Monat.)だと皮肉られていたが(2週間や3週間は物の数に入らない)、オーディオの山でも「万」が最小単位である。今でこそほぼ平熱まで下がり(?)罪のない顔をして澄ましている私も、かつて立派に体温があった10数年間は、オーディオを趣味とせぬ健常な人々が考えるより常に1,2桁上の投資をし、それにすっかり慣れていた。今でも時々発作を起こし、やおらインシュレーターを変えボードを交換し、真空管や種々の端子を磨きだし、さては電源部をいじったり、果ては種々怪しげなグッズを試したりと、いまだ快癒の診断には遠い。

オーディオに何を求めるかと問われたら何と応えよう。昔NHKの水曜時代劇「宮本武蔵」で役所広司演ずる、まだ迷いと惑い中にある宮本武蔵は、それゆえ訪ねた柳生の里で、西村晃が凛とした気合いで演ずる柳生石舟斎

「武蔵、己の剣とは?」

との問に、確信はないがそれを悟られまいと

「されば、電光石火

と詰まりながらも言い放った。

私ならば

「されば、原音再生

「されば、リアリティー

「されば、コンサート・ホール最上席

「されば、息遣い

「されば、Passion

「されば、....」

ちなみに、武蔵に問い返された (「では、老師の剣とは?」)

石舟斎の応えは、

 「春風の如し」

であった。

2008/05/28

バーニャのパン "pan bagnat"

柏木にある「バーニャのパン」("pan bagnat")はごく小さなパン屋で、売り場そのものは一坪ほどしかない。客が二人入ればきつく、三人入ればぎゅうぎゅうである。一方通行路の狭い道に面して、店の開く朝 8時から品切れになる夕方まで、常連客やら贔屓筋やら或いは評判を聞きつけたパン好きなどでそれなりににぎわいながらも素朴で不器用なたたずまいを見せている。よって立つ理念はフランスの(下町の)街角のパン屋のようで、残念ながら正統ドイツ・パンではないのだが、うちの菩提寺に近いこともあるし、小麦全粒粉なり高濃度のライ麦パンを数種類選べることが貴重且つ稀少ということもあって、仙台に戻ってきて以来、私もちょくちょく利用している。

「パリジャンのパンではない」
狭い店内には洗練というのには程遠い素朴で不細工な、それでいて実にうまそうなパンが所狭しと並んでいる。それらはごつごつしたジャガイモのように美しいが、スマートさとはまるで縁がない。それはもう実に素人じみて見えるほどである。酵母バターといった素材そのものをストレートに感じさせるパンは、どれもこれも密度が高く重量感があって(一部のパンなどもし投げて当たったら確実に昏倒するだろう)、普通はパリパリ、サクサクで軽やかであるはずのクロワッサンですら文字通り持ち重りがするのである。まるで薪の石窯で焼いたかのようなバケットもどちらかと言えば森の木のように硬くしまっていて、焼き色も「黒い」。見た目はお世辞にもいいとは言えなかろう。それらはまるで森の木や薪の枝のようで、ふくよかだがよくしまってはちきれんばかりになっている格好のいい健康なお嬢さんの黄金色の二の腕ではない。これはおしゃれなパリジャン、パリジェンヌのパンではない。言ってみれば、ミレーの農夫が食べるパンなのである。しかしこれはこれで確かに魅力である。というより、それが魅力なのだ。



「ヘーゼルナッツの匂い」
しかしそれだけではない。バーニャのパンにはもう一つ、素朴な力強さ以外に人を捉えてはなさない要素がある。それは「匂い」である。比喩ではなく、どのパンにも他のどこでもかぐことの出来ない(少なくとも私はかいだことがない)匂いがあるのだ。バーニャのパンならではの匂い。窯くささとでも言おうか、素朴というのとはちょっと違う、変に癖になるそそるような匂いである。バターをまるで使わないパンにも(例えばバケットやライ麦パンにも)やや甘い焼けたバターのような、そして私の好きなヘーゼルナッツのような匂いが香ばしくもしめやかに乗っていて、最初私はてっきり窯の匂いが移っているのだろうと思っていた。幾種類ものパンを(バターを多く含んだものも100%のライ麦パンも)次から次へ同じ窯で焼き続けるために全ての匂いが混ざり合って、それが乗るようになったのであろうと推測していたのである。少なからぬパンにその当のパンのものではないと思われるこげが付いていることなどもあって、なおさらそうであろうと思っていた。ところがそうではなかったのである。

「窯の匂いではなかった」
この持った手ばかりか服や髪に移るほどのバーニャならではの匂いは、純粋にライ麦パンの風味を味わおうとする者には少々邪魔にはなるものだ。小麦パンなら問題ではないのだが、ライ麦パンとなるとライ麦本来の風味が損なわれるところがないわけではない。使っている粉の挽き様や配合、種も通常よく使われている酸味の強いサワー種ではないらしいことなどの影響も大きいと思うのだが、高純度のライ麦パンであるにもかかわらずライ麦好きにはライ麦らしさが十分ではない。あの魅力的な匂いにライ麦本来の香りが覆い隠されているという感じだろうか。だから、同じパンでも挽きたてライ麦の爽やかな酸味と渋みが香り立つ正統ドイツ・パンに比べることは実のところ出来ないのではあるけれども、しかし食べつけるにつれていつの間にかそれはそれで奇妙に癖になってくるものなのである。中毒性があるとでも言おうか。それが気になっていたので、あるとき店主に訊いてみたのである。

「この独特の風味は窯の匂いですか?」と私。

「いえ、酵母の匂いです。」と店主。
(まだ30代であろうか。禁欲的な職人という感じではないが、強力な探究心と背後の世界を感じさせる主人だ。)

「酵母の。」

「うちでは水と粉だけで酵母を起こしているんです。それを熟成させていくうちに酵母がもろ味のようになってきて、ハシバミのような独特の風味が出てくるんです。酵母を葡萄汁のような果汁で起こすこともよく行われていますが、果汁だと熟成を進めてもすっぱくなりすぎてあまりよくないのです。」

「なるほど、そうだったのですか。いや、ありがとう。」

そういうことだったのである。独特の風味の正体は水と粉(小麦全粒粉だろうか)だけで起こされた自家製酵母の風味だったのである。ほとんど全てのパンにその風味があるのはその酵母が使われているからというわけであった。「ハシバミ」といえば、つまりヘーゼルナッツである。あの妙に癖になるヘーゼルナッツのような(そして確かにもろ味のようでもある)風味の正体が分かって、私は妙に得心した。(もっとも「全て」ではないようだ。バケットにも2種類あって一方のフランス産小麦で焼いているものなどにはこの匂いがなかったようだが。)

「しかしそれでいい」
継ぎ足し継ぎ足されて熟成が進むうなぎ屋のたれのように、長く大切に熟成が進められてきた酵母にはやはりその場限りのものにはない味わいと魅力と力と癖があって、それゆえにそれがわれわれを強く惹きつけるのだろう。そしてその強力な武器である小麦天然自家製酵母が、その本質が強力であるだけにライ麦パンもその色に染め上げてしまい、結果いささかの違和感を感じさせるのでもあろう。そしてそれが正統ドイツ・パン好きに物足りぬ感じを引き起こさざるを得ないのでもあろう。(物足りぬものついでにもう一つ言えばクリスマス・シーズン以外にも出ているバーニャの「シュトレン」もおよそシュトレンらしからぬ軽さでまるでガレットか普通の焼き菓子のようである。正統シュトレンに比して非常に安く、これはこれでうまいのだが、発泡酒がビールでないようにあれはシュトレンとは言えなかろう。)

しかしながら、それでいい。バーニャはドイツ・パンの店ではないし、そもそもそれを目指してもいなかろうから。あの強烈に個性的な力強いパンがごろごろと並ぶうまいパン屋が買いに行こうと思ったら買いに行ける距離にあるという幸運を思うべきであろう。(ここしばらく行っていないのだが)買いに行こうと考えただけで豊かな気持ちになれる店というのはそうたくさんあるものではない。もしもなくなってしまったらひどく寂しい気持ちがするだろうことは確かである。


s.バーニャのパン "Pain bagnat" 再び (2009/01/30)

2008/05/27

回想のKleiber


先日晩年のKleiberがBayerisches Staatsorchesterを振ったCoriolanの映像を観る機会があった。亡くなったのが2004年の7月13日であるから、映像の96年10月は普通に晩年と言うには早すぎるわけだが、やはりそれはCarlos Kleiber晩年の姿と言うべきであった。CDでは97年に出た(海賊版なのかどうか知らぬが)Croatia製のディスクをその気魄のこもった演奏ゆえに愛聴してきたのだが、その映像は正直なところショッキングであった。

一言で言えば「悲劇的」なのである。「ひどい」という意味ではない。不可避の運命をそれと知りつつ転がるようにたどるほかないギリシャ悲劇のような悲劇性が感じられたのである。逃げ出すことの出来ぬ悲劇を否応なく突き進まざるを得ぬ悲愴な面持ち、重く気難しい憂鬱の影、失われた青春の喜び、かつてあれほどにあふれ輝いていた快活なひらめきや流麗な幸福感はあまりにシリアスすぎる暗い目の光と眉間のしわ、しなやかさを失い(しかしまだ失い切ったわけではない)土星的に比重の重くなった体と老いに変わっていた。

私にとってKleiberと言えば78年のWiener StaatsoperでCarmenを振った時のフレーズを口ずさみながら颯爽と棒を振り下ろした姿であり、83年のConcertgebouwでお得意のBeethovenの4番と7番を振った天才的な舞踏であった。私はあの魔女のような顔の痩身のKleiberが腕をぐるぐると振り回して、あの独特のアウフタクトを駆使してリズムと劇性の権化となっていく様が忘れられない。92年の二度目のNeujahrskonzertや94年のWienのRosenkavalierの時には確かに老けたなという印象を受けたが、そこにはオーストリア・ハンガリー帝国的な残照の美しさが十分にあって、それはいわばMarschallin的な甘い憂愁と言ってよいものであった。枯れたと言っても絶望ではなかった。

ところがCoriolan時点ではもう根源的な悲劇の渦に絡み捕られているように見えるのである。晩年ますます気難しさとふさぎの虫が高じたような話も聞いたが、奥さんが死んでいくらもしないうちに自分も死んでしまうことになった彼は何を背負ってしまっていたのであろうか。確かにKleiberに老成は似合わない。永遠に青春と官能の芸術家であるはずであったが。

老いて重くなったKleiberは昔はまるで似ているとも思わなかったが、父のErichに思いもかけず(或いは当然なのか)似ていた。CarlosにÖdipus的な問題がどれほどあったのかは知らぬが、彼の晩年にはどこかギリシャ悲劇的な人間の運命に関する根源的で暴力的な悲劇性、不幸の印象がある。それに捕らえられてしまったのか。Wienを越え、Freudを越え、ついに古代ギリシャ的・神話的な運命と死にさらわれていった。これが私の印象である。むろん印象に過ぎぬのであるが。

2008/05/26

回想の黒パン-神田精養軒2


当時(今でもそうだが)、仙台の神田精養軒は小さな販売店舗が駅ビルのエスパルに入っていて、数はさほど多くなかったものの種々の黒パンや白パンを置いていた。その他にもリンゴとカボチャのどちらもシナモンのよく効いたアメリカン・ホームメイド・スタイルのパイがあったり小麦全粒粉やライ麦のクラッカーであるクネッケがあったり、或いはクッキーやプチ・マドレーヌといったものが並ぶ所謂「バタくさい」店であった。元々が西洋料理なのであるからそれはそれで不思議はないのだが、その「西洋風」がよくあるフランス風、洋菓子店風の華やかさでは全然なしに中欧風、修道院風な色気の無さであったのが一言で言えば「異質」であった。禁欲的とでも言おうか、その飾り気の無さはトラピストのバターやガレットに漂う雰囲気にも通ずる素朴さで、今でこそ色々なタイプの店があって特に珍しくもなくなったが、当時一般的だったパンや洋菓子の店としては少々風変わりでそれだけ印象に残ったのである。たまに母のお供で店を訪れる時には、私は決まって修道院の回廊中世の石畳を連想した。

さて、母が買ってきたプンパーニッケルはその異様な重さに一種のカルチャーショックを覚えたが、味には大いに満足した。白パンにはあり得ないずっしりと粘るような噛みごたえ、奥行きのあるさわやかな酸味とほのかな渋み、噛めば噛むほど増してくるように思われた味わいなど全体としていかにも力強いものであった。初めはただ食べ、次にバターを塗って食べ、更にはチーズを載せて食べ、その上更に蜂蜜を垂らして食べたのだったが、「バターやチーズというものがパンというものにいかに合うか」ライ麦パンを通して初めて実感した気がしたものである。ライ麦パン特有の酸味とバターやチーズの濃厚なこくと乳製品らしい甘みが実に絶妙であった。当時チーズはほとんどがプロセスチーズで、今振り返ればくどいわりにのっぺりしてあまり面白みのある味ではなかったのだけれども、それでも私はそれをやけに厚切りにしてぬかぬかとした食感共々に大いに満喫したのである。

これが私の本格黒パンの原体験だが、それももう「今は昔」のこととなった。少年が老いただけではなく、神田精養軒もパンを焼かなくなったのである。2年ほどにもなるのだろうか、パンの販売が終わると聞いて買ったのが最後となった。かつての店の雰囲気はとうに変わっていて、もう普通のマドレーヌ屋さん、クッキー屋さんという感じではあったのだけれど...いずれせよ残念なことではある。

昔の神田精養軒には原体験後もよく買い物に出かけたが、学生時代から二十年余り続いた神奈川時代も町田や茅ヶ崎店で「シュレーゼンブロート」とか「ホルシュタインブロート」といったライ麦率の高いものばかり選んでは丸々一本、二本と頼んだりしていたのだった。神奈川での私のパン生活は専ら紀ノ国屋の袋入りをスーパーで買うか神田精養軒で注文して頼むかであった。まだ街のパン屋は開拓していなかった。

神田精養軒も店の雰囲気が変わったように時代の流れの中でパンの味もやや変わって来ていたが、パンそのものが消えてしまったのは何とも残念なことであった。たとえあの思い出のプンパーニッケルが以前よりもマイルドでライトになっていたとしてもである。久しぶりにと思っても最早食べることは出来ないのだ。あのパンはもはや記憶と回想の中にしかないのである。

2008/05/20

回想の黒パン-神田精養軒1

仙台に戻って来て早4年が過ぎた。時の経過と環境の変化は変化を嫌う私のようなものの習慣や嗜好にも少なからぬ変化をもたらしたが、かえって逆にその指向が強まったものもいくつかある。30年来続くコーヒーライ麦パンへの嗜好もそうである。

「店」や「豆」を選ぶだけであったコーヒーはついに生豆を取り寄せてわずかではあるが自家焙煎を始めるようになり、パンはライ麦粉と水だけでサワー種を起こして100%のRoggenbrotを自ら焼き始めた。「気に入ったものがなければ自分で作れ!」という極めて積極果敢な策だが、もっとも自分で作ったからといって必ずしも気に入ったものになってくれはせぬところが「人生」というわけではあろうか。しかしながら、この手なぐさみのおかげで私は改めて店でパンなりコーヒーなりを選ぶ際に、以前とは異なる新たな選択や妥協の基準を得ることができたのも確かである。

当時は専ら種類の別なく「黒パン」と呼んでいたが、私が初めて本格的なライ麦パンを食べたのは中学の頃である。母が買って来たのは「神田精養軒」の「プンパーニッケル」であった。当時よく買っていたホームメイドタイプのアップルパイと一緒にその日は煉瓦のように重いパンも買って来たのである。袋であったか一緒に入っていた紙であったか「シュタインメッツ製法」で製粉されたライ麦粉である旨が図解入りドイツ語入り(だったか?)で記されており、パンはただのパンではなく素朴な力強さドイツ正統の重厚さを否応もなく漂わせていた。子供の頃に読んだ本の挿絵で見て、それ以来心ひそかに思いを募らせていた「黒パン」なるものを目の前にして、その期待にたがわぬ存在感に私は或る種の感動をすら覚えていた。

 につづく

2008/05/16

記憶と印象

昔はよく散歩をした。時間や場所を問わず、いつでもどこでも好んでよく歩いたものである。近所では気に入った散歩コースが何本もあり、気分や時間帯、天候や気候に応じてそれらのコースを幾通りとなく組み合わせることもできた。遠く初めての土地でも同様に、街であれ山であれ海であれ、まずはお構いなしに歩き回った。

当時、この散歩は私にとってほとんど日課と言ってよかった。何かのためではなく、ただ純然たる散歩を好んでいたのである。普段は暮らす街を縦横に歩き回り、時に足を伸ばしては丹沢の里山を歩き回り(ついでに大山にも登り)、時には山中湖や河口湖を一巡り一周ぐるりと歩いて、しばしばハイキングなのか、トレッキングなのか散歩の範疇を越えたが、2時間、3時間、或いは5時間を超えてひたすら歩いて飽きることがなかったのである。鬱勃たるパトスと憧憬を道連れに逍遥し、外や内から訪れる様々な印象を楽しみながら、放吟こそしなかったが、いくらでも歩くことができた。今はもう無いが、当時は時間も「在った」と言えばどこかに「在った」のである。

最近は健康のために歩いたり走ったりすることもあるが、それだけのことである。「ためにする」行為というものを長らく高踏派的な理由から軽蔑してきたのだったが、光陰は矢の如くに過ぎ去って、私も最早かつての若者ではない。気がつけば胴回りを気にせねばならぬ中年となって、疲れを知らぬ青春の日々も今は昔である。

ただ散歩のための散歩、改めて純然たる散歩を楽しむには、今度は逆にもっと歳をとる必要があるのかもしれない。

仙台に帰ってきて早4年が経ったのである。今でも時々純然たる散歩を楽しもうと試みてみることはある。昔懐かしの道を歩けば変わったものや変わらぬものの様々な記憶と印象に満ちているのに違いない。ただし昔と違って回想と内省に傾きがちな散歩ではあろう。

 "Strandspaziergang"


”ざわめく海原の上に明るい灰白色の空が広がり、ひりひりするような湿気が辺りに満ちて、その塩辛い味が私たちの唇にもこびりつく。おおらかなおだやかな風が自由に自在に開け放しに空間を吹きわたり、私たちはその風に耳を包まれ、頭が少し鈍くなったような感じで、海草や小さな貝殻の散らばった、かすかに弾力のある砂の上をどこまでも歩いていく...私たちはいつまでも歩き続けながら、寄せては返す波が白く泡立つ舌を出して私たちの足を舐めそうにするのを見る。波は沸き立ち、ひと波またひと波と明るいうつろな音を響かせながら跳ねあがっては、平らな浜辺にさやさやと打ち寄せる...ここでもかしこでも、向こうの砂洲でも。そして、このいたるところでこもごもおだやかにざわめいている波の音は、私たちの耳をふさいで、この世のいっさいの音を消してしまう。深い満ち足りた気持ち、わざとすべてを忘れてしまう幸福...。私たちは永遠の懐に抱かれて眼を閉じようではないか!”
"Sausende Öde, blaß hellgrau überspannt, voll herber Feuchte, von der ein Salzgeschmack auf unseren Lippen haftet. Wir gehen, gehen auf leicht federndem, mit Tang und kleinen Muscheln bestreutem Grunde, die Ohren eingehüllt vom Wind, von diesem großen, weiten und milden Winde, der frei und ungehemmt und ohne Tücke den Raum durchfährt und eine sanfte Betäubung in unserem Kopfe erzeugt, - wir wandern, wandern und sehen die Schaumzungen der vorgetriebenen und wieder rückwärts wallenden See nach unseren Füßen lecken. Die Brandung siedet, hell-dumpf aufpralled rauscht Welle auf Welle seidig auf den flachen Strand, - so dort wie hier und an den Bänken draußen, und dieses wirre und allgemeine, sanft brausende Getöse sperrt unser Ohr für jede Stimme der Welt. Tiefes Genügen, wissentlich Vergessen . . . Schließen wir doch die Augen, geborgen von Ewigkeit!"   (Der Zauberberg )

この適当な時刻に切り上げて家に帰ることはできなかろう”海辺の散歩  Strandspaziergang私も愛しているのだが、実のところ今海辺を歩く機会はほとんどないし、以前もそれほどあったわけではない。

だからこのブログ名は純粋に内面的なものなのである。

今は近所の街や川沿いの散歩に過ぎず、しばしば森(林公園)の散歩なのだが、それでもいざ歩いてみれば、初夏や秋の木漏れ日は素晴らしかったし、風で波打つ田園も花を咲かせる家の庭も悪くはなかった。神社の石段も十字架の付いた教会の屋根も懐かしい修道院の薔薇の這った石塀も或る種思い出と共に思いがけず多くの印象をもたらしてくれたのである。

ここでは、半ばうもれ、半ばくちた、その記憶と印象を綴ってみようと言うのだ。


子供の時分は東照宮の境内でよく遊んだ。鳥居から左にそれて行くと(今は影も形もないが)昔は小さな広場にごくごく小さな遊園地もあった。





森林公園は土の道であるし、どんどん歩くにしても傍らの木々や植物に目を向けるにしても悪くはない。


幼稚園に付属している牧師館である。ほぼ昔と変わらぬ姿で今も在るが、私自身はかつて通っていた時に務めていた司祭様と変わらぬ歳になった。



歩いている時、考えるタイプの人間とぼんやり記憶や印象に身を任せるタイプの人間とがいれば、間違いなく私は後者である。ニイルス・リイネやハンス・カストルプと同様の特性だが、これは「人生の厄介息子(Sorgenkind des Lebens)」に多かれ少なかれ共通する不活発な性質なのであろう。