2010/10/28

関口存男の小さな評伝

先日、近所の本屋に立ち寄ると新刊書の棚に池内紀が書いた関口存男の小さな評伝が並んでいた。懐かしい名前である。私は熱心な学習者ではなかったが、それでも“初等ドイツ語講座“であるとか“独作文教程“といった名著を眺め、“関口存男の生涯と業績“という箱入りの一冊も持つだけは持っているのである。物置を探せば、関口文法の色合いが濃厚に残っていた時代の“基礎ドイツ語:Mein Deutsch“も何冊か見つかるはずだ。

本の後書きによれば、関口存男生誕110年に当たる2004年に『現代思想』に連載したものを、今回一冊にまとめ直したものだそうだ。池内自身は生誕100年の際の1994年にもいくつか文章を書いていて、関口存男の未発表原稿の発掘や新しい評価など複数の記念出版があるものと秘かに期待していたらしいのだが、既存著作のまとまった復刊以外、他にそれらしいものはほとんどなかったようなのである。そこで、待っていても出ないのならばということもあり、遅ればせにオマージュを捧げることにしたらしい。

ドイツ語学の鬼才、法政時代の内田百閒らとの対立、未完に終わった畢生の大作『冠詞論』、関口文法の隆盛と没落など、改めて見ればいかにも奇人好きな池内紀好みの素材ではある。そんな池内の今回の指摘で思いがけなかったのはヴィトゲンシュタインとの類似だ。実践的語学の追究が言語哲学、認識論に突き抜けてしまったのである。両者とも言語の森に奥深く分け入り、深く分け入り過ぎて、もはや生還を期せない地点にまで踏み込んでしまった。ヴィトゲンシュタインはここに至り、畢竟沈黙する他ないことを結論としたが、関口存男は語り得ぬことがらが潜む地点に至ってなお決死の突貫をやめなかったらしい。それがもはや語り得ぬと知りつつ、それでもその幾重にも茨の絡まった身動きならぬ地点でしぶとくもがき続け、じりじりと匍匐前進を続けていく。勿論、これはそもそも勝つことの叶わぬ勝負であり、当然敗れ去る他はなく、困難を極める格闘と探究に彼の寿命はもう間に合わない。主著たる『冠詞論』は2千数百頁を費やしてなお完成せず、その後の計画も頓挫するのだが、実にその点において我々の心を揺するドラマは存するのである。その限界内において最善を尽くし、遂に敗れさるが、人間存在の内実としては勝利した者の悲劇である。

これはファウスト的な悲劇であり、ドラマとしては特に目新しいものではないだろう。しかし、悲劇の価値は新しさや珍しさにあるわけではない。むしろ、典型的•神話的な度合いが高ければ高いほど純然たる価値と力を持つものであろうが。彼は困難な探究の道半ば63歳で逝く。膨大な資料の山が遺された。もしまだもう少しの時があれば、関口存男は何処まで行けたのか、或いは行けなかったのか。

孫の関口一郎が癌で倒れることなく、まだ生きていたら、事態は変わっていただろうか。遺稿集や資料類はもっと出たかもしれない。だが、評価や研究となると新たなものが出てくる可能性はあまり高くはなさそうだ。言語哲学となった実践語学の研究である。ヴィトゲンシュタインやソシュール方面からの研究があるだろうか。言語哲学としても言語学としても、独自過ぎる、しかも未だ完成せざる体系を適切に扱える研究者が果たしているだろうか。或いはその気になる研究者が。

いい機会を得た。暫くぶりに読み直してみることにしよう。

2010/10/13

2種類の人間と阿呆船

世の中には、あるべき姿や原理的な根拠を問題とし、自らの在り方や決断や行動の裏付けを吟味することを当然と考える人間と、そうでない人間の2種類があるようだ。国会中継で自民党の石破茂と民主党の無見識な連中とのやり取りを視ていると、この2種の人間の大きすぎる差に愕然とする。

人間に品格というものをもたらすのは、自らの個人的な基準を超えた所に想定される原理、理念、思想、倫理、イデアであろう。それらを欠いた場合、その人間の判断規準や行動指針は単なる世俗の損得勘定や慣習的な無反省の反応になる他ない。実にその見本とも言える姿を見せてくれているのが民主党の面々である。実に見識なき無恥の人間という物をこれでもかと言わんばかりに晒してくれている様子はなかなか見られるものではない。

見渡してみれば、また振り返ってみれば、自身を超越した高次の基準を持っていないような人間で尊敬できる人間にお目にかかったことはない。

民主党とは倫理的、道徳的に破綻した羅針盤も舵も持たぬ「阿呆船」 (Das Narrenschiff)である。我々はそれに乗り合わせているというのか。

2010/10/12

AndroidアプリSmart Keyboard PROを試す

Smart Keyboard PRO(€1.99)を試しているのだが、キーボードの感じはとてもいい。キーの間隔、記号類を打つ際の容易さ、日本語から英語や独語への切り替えの手軽さなど、その点に関してはほとんど申し分がない。元々多言語対応キーボードであるから、英語や独語を単独で打つに良いのは当然だが、欧文を日本語中に挿入するのにほぼシームレスでいけるのが大変良い。ßがないのは腑に落ちないが(※sの長押しでポップアップされることが分かった。これでよい)、ウムラウトを一々記号から選び出す必用がないのは楽である。これを普段使いのキーボードにすれば、今メインで使っているSimejiで使いづらいと感じる部分が概ね解決されることになる。

では、それは可能なのか。残念ながら十分ではない。問題なのは日本語入力の弱さだ。入力方法や予測変換自体の動作に問題はなく、むしろ機敏で結構なのだが、如何せん辞書の語彙が十分でない。また、多文節の一括変換、漢字一語の呼び出しが出来ないことも大きな弱点に思われる。単文節毎に確定する習慣の者ならそれはそれだが、一文またはそれ以上を入力して一括変換し、変換に誤りがあればそれは適当な文節に分け直して改めて正しい変換を探るという当たり前のことが出来ないのは不便だ。漢字一字を単独で呼び出すことが出来ないのも不便である。変換候補に適当なものがない場合や一字だけ直したい時にはわざわざ適当な熟語を出して、要る漢字以外を消すという手間をかけなければならない。日本語辞書の充実、多文節の一括変換機能、漢字の単独呼び出し、この3点が日本語キーボードとしてのSmart Keyboard PROの課題である。今後のアップデートで漸次改善が図られていくことを切に望む。日本語力が上がってきさえすれば、これを是非メインキーボードにしたいと思うからである。

何れにしても、もうしばらくこちらをメインにして使ってみたい。筆記用具が変わるとそれだけでも新鮮な気分にはなるものだから。

2010/10/11

Android OS 2.2へのアップデート

10月8日にAndroid OS 2.2へのアップデートファイルが配布されて、私のDesireも目出度くFroyoになった。最初にアップデートを試みた時は、更新に必要な25MBの空きが内部メモリーになくて、やむなくいくつかのアプリを削除したが、全体としては特に問題もなく更新は完了した。アップデートしてしまえば、対応したアプリをSDカードに逃がしてやれるようにもなるので、その差分で改めて入れ直してやることもできる。(結局、あまり使わないTwitterの純正アプリとGoogle Reader用の読み取りアプリは削除して、今もそのままだ。)

さて、2.2になって性能は大いに向上した。Internetの読み取りは随分速くなったし、コンタクトも時にカクカクしていた動きが滑らかになった。概して反応がより機敏、動きがスムーズになっているようだ。基本アプリとなるSearchやMapやGmailもそれぞれ機能や使い勝手が向上している。こうなるともう2.1にはもどれない。


アップデートによる大きな問題は生じなかったが、小さな問題は幾つかあって新しい環境下での調整には一晩かかった。アプリで問題が生じたのがDolphin Browserで、これは起動せずに落ちてしまうという症状で少々困った。再起動したり、インストールし直したりしたが状態は変わらず、メインブラウザにしていたので些か心配させられもした。ホームをHTC Sceneにしていないからかとも疑い、設定を戻したりいじったりもしたのだが、その後Googleの最新情報検索で、英語環境であれば起動に問題はなく、一旦起動させてしまえば、後は日本語に戻しても大丈夫というTwitter情報を見つけて事なきを得た。(ただ、一度アンインストールしてしまい、バックアップも取っていなかったものだから、ブックマークの再現に時間を要した。)もう一つはタスクマネージャーアプリのjkAppSwitchEXで、アプリのスイッチはできるが停止機能が働かないということがあった。こちらはそもそも2.2未対応だったからで、さて今後この99円アプリのアップデートがあるのかないのか、あるとすればいつなのか、これは不明である。なければ代替アプリを決めなければならない。

HTC Senseは、結局使わないだろう。画面下にわずかに弧を描く不透明なランチャーバーが気に入らないためだが、前から愛用しているLauncher Proが非常に優れているためでもある。デザイン、機能とも申し分ないのだ。これが無料アプリだとは全く感心する。感心するアプリは他にもある。こちらは有料だが、FolderOrganizerも素晴らしいものだ。これがなければホーム画面の使い勝手はまるで異なってくるだろう。実のところ一番重宝していると言ってもよい。任意にフォルダーを作り、その中にアプリでもサイトのショートカットでも、電話番号でもメールでも何でも入れておくことができるというものなのだが、ジャンル毎にフォルダーを作れば、必要なものを必要なだけ分類整理しておくことができるのだ。しかも、フォルダーには好きなアイコンをつけられるから、普通のアプリのアイコンのようにホーム画面上に並べておくことができる。アプリを7個も8個も並べて画面を占拠するかわりに、パッケージされているフォルダーを1つ置くだけでよくなるのである。これによって劇的にホーム画面は変わる。ツール系のアプリ数あれども、これは私にとって必要不可欠アプリの筆頭だ。

Launcher ProやFolderOrganizerは以前から重宝していたもので、その点アップデートによる変化ではないのだが、アップデート後も依然として変わらずに残念だったこともある。特に不満な点は2点だ。組み込みブラウザの使い勝手の悪さはさておき(これはブラウザを換えれば済む話だ)、連絡先にURLを書いておいても連絡先からは開けぬことが1つ、キャプチャー機能が相変わらず装備されなかったことがもう1つである。連絡先上のメールアドレスからメールソフトを立ち上げることはできる。ならば当然連絡先上のURLからブラウザを直接立ち上げられるようにするべきだろう。URLが書いてあっても、ただ情報として書いてあるだけで連絡先ソフト上ではコピーすらできない。これは全く不便だ。また、画面の簡単なキャプチャー機能も何故ないのか。PC無しで何故撮れるようにしないのか。記録としてとどめておくことすらできない。

Froyoで叶わなかったことがGingerbreadで叶えられることを望む。その時には端末もパワーアップすることになるだろう。年内にAndroid OS 3.0、来年春に新端末、ならば私としても、来年度中に機種変更という道筋もあろうか。

2010/10/07

試したビールにがっかりした話


こちらに戻ってきてからは、昔と違って、ほとんどビールもワインも飲まないのだが、先日10日ばかり開かれていた仙台オクトーバーフェストでHofbräuhausの旨いビールを久しぶりに飲んで、ここ数年の間に随分増えていた国産プレミアムビールをふと試してみる気になったのである。

神奈川にいた時分は、流通し始めた地ビールはさておき、大手メーカーのまともなビールと言えばヱビスかモルツ、ブラウマイスターやビール職人、ハートランド程度しかなかった。比較的ヱビスを好んできたが、基本的には上面発酵の豊かで複雑な香りと味わいを愛する者としてはどれもこれも物足りないものであった、というより求めるところのものがそもそも違っていたのだろう。時折びっくりドンキーの自家醸造ビールや七沢森林公園そばにあったイタリアンのセルバジーナさがみビールを飲んで溜飲を下げるほかなかったのである。麦芽、ホップ、水、酵母のみで副原料を一切認めないビール純粋令を信奉しているので、世に出回っている米やコーンスターチの入った変に臭いものは気に入るはずもなかったし、ましてや酒税法の間隙を縫って無理にこしらえたビールもどきなどは端からインチキ以外の何物にも思われなかったものだから、大っぴらに軽蔑していた。(今もしている。)だから当時は、一人で飲む分には出来うる限りまともな地ビールを買うようにしていたのだ。少々価格の高いのが玉に傷だが、中には"よなよなエール"のように手頃なものもあった。

というような偏屈な経緯を経て今回試しに飲んでみてがっかりしたのが、アサヒの2009年のアメリカのビールコンテストで金賞受賞というアサヒ ザ・マスターである。缶の色からして、そしてヱビス黒の隣にあったこともあり、てっきりdunkel系のビールかと思って求めた時点で既に半ば間違っていたのである。上面発酵の複雑な香味を求められない以上、その代わりにローストの香味を味わうつもりでいたわけだったからだ。それでガッカリしたところから始まったのも良くなかったのだが、気を取り直して飲んでも、それを引っくり返すだけの妙味を感じることはできなかった。アサヒにしてはしっかりした味わいだし、スーパードライなどとはまるで違う落ち着いた完成度だが、どうも残り香が良い具合でない。まあ、普通なのだが、フーッと軽やかにも豊かに鼻を抜ける、花や果実の華やかさが鼻孔をくすぐる芳香を求めていた私にとっては何とも期待とかけ離れたモノクロームの世界であった。発酵の仕組みが違う以上、そんな芳香を求めるのは初めから筋違いなのだが、だからこそ黒ビールを選んだつもりでいたのだ。ところが間違えた。間違えて行き着いた先がアサヒ製のレーヴェンブロイを少しだけ重くして、ホップと酵母の苦味から爽やかさを取ったような、やや鈍なドイツ風ピルスナーであった。

びっくりドンキーは家の近くにもある。そこからビールだけ買ってくることができれば、少しは私の渇きも癒されるだろうか。無論、持ち帰りビールはない。かえすがえすも残念なことである。先日の旨いビールが仇になったというべきか。

2010/10/04

Blogger用モバイルアプリ“Blogaway“を試す



WordPressのモバイルアプリが良かったものだから、Blogger用アプリでもBlogger-droidより機能の充実したものはないかと探したのが、この(今それで書いている)Blogawayである。機能自体はWordPressアプリに遜色無いくらいで、見たところそれなりの編集機能もあり、投稿後の編集も出来るようである。(太字斜体字下線色文字などはこの通りだ。)問題は使い勝手と信頼性・安定度だが、これは使ってみないと分からない。

文章を書く作業スペースが広いのは結構だ。広告は入らないのでそれに場所を取られることもないし、フォントが小さいようで、一編に1行18文字で9行表示することが出来ている。入力の候補が仮想キーボード上部に出た上で9行見通せるというのは、もしかすると最大かもしれない。Blogger-droidだと、この半分といったところだろうか。これは広くて書きやすい。編集機能云々よりこの広さだけでも価値があると言える。安定度の問題がないようなら、Blogger用モバイルアプリは交代としてもよい。

試用期間は数日といったところだろうか。期待にかなったものであるとよいが。

2010/09/25

秋となる

ようやく秋めいてきた思っていたら、夕べは寒くて目を覚ました。これまでのように毛布一枚では足りなかったのである。金曜日には、そういう種類なのであろうか、ずいぶん早いと思うのだが、既に色づいて紅く染まった葉を歩道に落としている街路の植込みもあった。よく見掛ける種だが名前は知らない。いよいよ実質的な秋になったということか。

秋分を越して、何れにせよコーヒーの旨い季節となったのは良い。そしてそれはコーヒーの友についてもまた同様である。

先日来、人が来るというのでバーニャまで買いに行ったチーズケーキのついでに、つい一緒に買い求めたアップルパイ(ガレット・ポムだったか)が妙に口に合うものだから、昨日もつい立ち寄ってしまった。薄くスライスした林檎が、層を作らぬタイプのパイ生地の上一面に並べられそのまま焼かれただけの素朴なやつで、直径およそ15センチ、510円という手頃さも魅力の定番の一つである。同じようなものでタルトになっている少し立派なやつもあるが、そちらではない。昔から私は、あのバターをたっぷり含んだホームメイドタイプのシットリしたようなポキボキしたような重めのパイ生地が好きで、特に一日おいてバター分が全体に染み込んでねっとりと馴染んだ、少し透明感の出た頃合いを愛好しているからである。お気に入りの生地に加え、旬を迎えつつあるリンゴをそのままに味わうことができるという点で今時分のコーヒータイムにはぴったりと馴染む。変にいじらぬ飾り気のないストレートさが貴重である。

昔から春と秋どちらが勝るかという議論がある。コーヒーの旨さでは秋に軍配が上がる。


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2010/09/20

オペラ『鳴砂』と仙台オクトーバーフェスト

先日もらった招待券でオペラ協会の公演を聴いたその脚で錦町公園で開かれているオクトーバーフェストに来てビールを飲んでいる。本家のOktoberfest御用達のBrauereiの一つ、Hofbräuhausのビールが飲めると聞いてやって来たのだ。今飲んでいるのはMünchner Weisseのレギュラーである。ソーセージも合わせて白いMünchner Weßwurstにした。ステージではドイツから来た6人組のバンドが愉快な曲を演奏している。先刻まで県民会館で聴いていた『鳴砂』とはまるで違う世界である。テント内で人々は騒々しく語り、何度も乾杯し(Prost!)、ジョッキを傾け、愉快な曲に体を揺すっている。ビール自体はなかなかうまいが、私自身は久しぶりのビールで早々に顔が赤くなってしまって情けない限りだ。

さて、というわけで、肝心の『鳴砂』はどうだったろう。それは当初予想していた逆オランダ人では全くなかった。嵐や海や難破船、原作者の言から窺われたスペクタキュラーな物への志向などから私は秘かに音の逆巻くヴァーグナー風を勝手に夢想していたのだが、実際はそんなことがあるはずもなく、音楽も脚本もまるで趣の異なるものであった。開演30分前の作曲家と指揮者のプレトークを聞いて少々期待しないでもなかったのだが、音楽そのものはヤナーチェクと青髭のバルトークの折衷、第2幕の後半はラジオドラマ風という感じであったろうか。「ルルルルルー」と言葉なしで歌われた主役二人の愛の二重唱は("夜明けのスキャット"を想像しなかったと言えば嘘になる)どうも安っぽく聞こえてしまった。

重唱や合唱はまずまず聴けたのだが、残念なことにレシタティーボに当たる語り部分には大いに興をそがれた。単調な母音ばかりが響く単純な日本語のセリフには、どんな作曲家であっても頭を悩ますところではあろうが、ああ一律に処理されると無機的、没個性的に響く。いきおい言葉の情報量とニュアンスに乏しくなって、誰の台詞であろうと何もかもがみな同じように聞こえてしまうのである。これでは必要な劇性が高まるはずはなく、ドラマに在るべき「正」「反」の緊張も、「合」の解放も立ち現れては来ない。あれを統一性と言うべきか。私には単調さと聞こえた。

脚本と演出のせいもあろうか、作品全体の説得力には疑問を覚えるほかなかった。悲劇には違いないのだが、いったい何の悲劇なのかよく分からないのだ。イサゴの悲劇なのか、ミナジの悲劇なのか、鳴砂の浜の悲劇なのか。おそらく浜全体の悲劇なのであろう。原作者にも作曲家にも人間の愚かさをダイナミックに描き出そうという壮大な意図があったと思われるのだが、なにぶんにも焦点が定まりきらぬ感じなのである。鳴浜のモチーフが弱くて印象に残らないのがそもそも問題だと思うが、肝心の鳴砂の浜の神聖さの根拠がどうにも希薄なのである。そのためにタブーを犯したのやら犯さないのやら、だいたい何が冒すべからざる禁忌だったのか伝わってこない。取り返しのつかなさ、運命の不可逆性が迫ってこないのだ。悲劇の必然性が感じられぬところにカタルシスは生まれぬだろう。

地元にオペラがあるというのは、これはこれで誇るべきことだろう。演出次第でもう少し説得力も持ち得るだろう。だが、正直なところ作品の完成度という点で言えば、この目の前のビールに敵うものではないようだ。

ビール万歳!

簡単に傑作は創まれぬということか。
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2010/09/10

芸術(?)の秋近し


今年の夏は酷暑だったが、ここのところようやく秋らしい風も感じられる朝夕が増えてきた。日が高く上ってしまえば、まだ相変わらず暑いが、朝自転車で坂を下る時は寒いこともあり、有り難いことに夜の寝苦しさもなくなった。無論、こうでなければならない。


気候的にはまだ学問、芸術の秋と言うには少し早いが、今年もオペラ協会から招待券をもらえることになった。創作オペラ『鳴砂』で、19、20と2日ある公演の内の2日目、14時からのマチネーである。敬老の日で彼岸の入りになるが、墓参りは午前中内に先に済ますか、後の月命日に合わせてしまうかどちらかにするとしよう。


漁村を舞台にした民話的要素の強い、幻想的、ダイナミックな作らしいのだが、作曲家も台本作家も寡聞にして知らない。海、海の男たち、異界からの侵入者たる謎の女、その出現による破滅とカタストローフに至る筋、道具立ては逆オランダ人を思わせる。問題は曲だが、さてどんなものであろうか。些かの興味はわく。今回はピットに入るオケが仙台フィルではなく東北大学の学生オケである。それがどの程度の、どんな違いになるのかは気になるところだ。昨年の『魔笛』では仙台フィルのぬるい感じが不満であった。いずれにせよ3月にストックホルムフィルを聴いて以来、実演を聴くのも半年ぶりだから、たとえ音の悪い県民会館であれ、日頃オーディオ慣れしてしまった耳と感覚のためにはそれだけでも意味はあるわけではある。

純粋に音の観点から言えば東北大の萩ホールが望ましいが、残念ながら実際にそこが演奏会場として使われることは少ない。音の悪い県民会館やイズミティ21が使われるのには地方文化事業政策上、商業上の事情もあるのだろう。無論萩ホールは劇場ではないし、本格コンサートホールとして舞台上の制限は普通の多目的ホールより多かろうから設備上オペラ公演が可能なのかも疑問なのだが、正直なところ県民会館も、たまに外来オペラが無理にやることもあるイズミティ21も似たようなものではあろう。諸々の制約を越えて萩ホールがもっと使われるようになればいいのだが。

何はともあれ、20日を楽しみにして待つとしよう。気持ちの良い秋の日であることを願いながら。

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2010/09/04

エリートたる者は




番組で高校生の全国高等学校クイズ選手権の模様を観たが、優勝した開成を始め準優勝の浦和にしてもどこにしても、上位進出した一流進学校の実力の程はなかなかに大したものであった。没落の坂を下り始めているこの日本で、それに抗う力になることができるかどうかはさておいても、彼らのような者たちが将来この国の第一線で活躍する日も遠くはあるまい。確か一昨年も見た記憶があり、その時も大いに感心したことを思い出したのだったが、そこにはエリートたる者に共通する一つの特性も見えたのである。

クイズ的な雑学知識や解答技術は当然だが、決勝に残るような者たちは皆、そもそも良く勉強している。基礎から応用まで、文系、理系、教科、分野を問わずそれぞれ実際に使うことの出来る知識となっているところが見事だった。多くの者が東大、京大を当たり前に志望しているが、受験勉強自体に苦労している様子はさらさらない。彼らには受験も普通の試験と同じ通過点に過ぎないようなのだ。

つまり、彼らにとっては勉強も知識も当然目的なんぞではなく、実に単なる手段だということである。一流アスリートが自身を鍛えるのはそれが目的なのではない。その先の勝負が問題なのである。それと同様、彼らも自分を良く鍛えているが、それは既にその先を見据えているからである。そして自分を鍛える点において何の躊躇いもない。これこそエリートたる者の特長でもあれば要件でもあろう。目的達成のための手段において苦労しないのである。演奏家は楽器が自由に弾けて当たり前、その上でどう解釈し何を表現するかが問題なのである。作家ならば言葉を自由に操れるのは当たり前、その上で何をどう表現するかである。楽器が弾けてよかったとか、言葉をマスター出来て嬉しいとかではないのだ。それらはただの前提に過ぎない。彼らにとって重要なのは常に知識や技能のマスターの先にあるものであって、途中で引っ掛かっていることなぞはあり得ないことであろう。仮に彼らが外交官となって各任地に赴任したら、その都度その先々でどんな言語でも選り好みせずマスターしてしまうことであろう。

そのような者が世の中にはいるのであり、一流進学校にはそんな者が毎年集まって互いに切磋琢磨を繰り返しているのである。その中で更に一流の者と超一流の者とが分かれてくるものでもあろう。さて、それにしても将来のエリートたる者の自分を鍛える点において一切容赦のない姿勢、これは遺伝なのか、才能なのか、果たして環境によるのか、教育によるのか、ひたすら個人的な資質によるものなのか。低徊趣味の私のように手段を獲得する段階で四苦八苦している者がいる一方、もう一方では先の目的のみ見据えてひたすら前に進んでいく者たちが少数ながら存在する。この差は如何ともしがたいものだ。開成や麻布に行ったかつての教え子たちは、さて今どのレベルにいるものだろうか。突き抜けた者はいるか。無論エリートは少数ゆえにエリートなのであり、大勢がそうであればもう特別ではなくなってしまうのであるが。

記憶力、理解力、集中力、持続力、やる気といった能力が鍵であろう。当然これらの能力には個人差が大きい。複合すれば、なお差は大きくなろう。「天才とは努力し得る才である」と言ったのは天才Goetheである。目的と手段が一致したところに生まれるのが天才であろうから、目的に邁進するだけの彼らは天才ではなく秀才なのであろうが、それでも「努力し得る」という特性は全く共通しているようだ。それに従えば後の3つが重要だが、前の2つの程度によって結果はまた更に異なってもこよう。エンジンが同じでも機体が違えばその飛行機の性能はかなり異なってくるわけだから。ただ、経験からしても努力し得る才を欠いてはどうにもならぬというのは見やすい道理だ。燃料のないエンジンに価値があろうか。これまで見てきて小利口なだけといった連中でうまくいった者は一人もなかった。そこそこの努力、苦労なしで行ける範囲に留まって、それ以上に進むことがなかったから。確かに「努力し得る」というのも「才」であったのだ。


さて、TVを視てチラホラと考えてしまったが、一つ確かなのは、本物の連中はこんなことは気にしないだろうということと、私がそうするには奇跡が必要だということだ。全く気に喰わぬことである。


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2010/08/29

Handyの入力


携帯でストレス無くものを書くには何より打ちやすさが大切だが、これには指のポジションを保証する本体の持ち方というものが重要になってくる。先日携帯をHTCのDesireにしていろいろ便利に使っているのだが、書く作業では正直やや苦戦していた。どうにも平面的なバーチャルキーボードに慣れず、暫くは画面を見ながら人差し指一本の片手打ちをしていたのだが、これではさすがに遅すぎた。前のNokiaのN95時代は物理キーボードで両親指打ちをしていて、まずまずの速さなのであった。それより遅いのはよろしくない。それで何とかしてみることにしたのである。

まず片手打ちを止めてQWERTYで両手親指入力を試みてみた。やってみると悪くはないのだが、問題もあった。普通に持って打っていると指が寝て親指の腹が広く画面に当たってしまうのだが、すると画面上のアルファベットの区切り枠を越えて隣を押してしまうことが増えるのである。親指2本で打ち込み速度は2倍になったが、誤入力も倍増してしまった。戻って直すのも度々になると煩わしく、これまた何とかするべきであった。

何とかすると言っても、指の腹の感覚を研ぎ澄まして、見事に打ち分けていくというのはあまり現実的ではない。腹で打っている限り打ち間違いは減らないだろう。指の腹はダメだ。ならば指先しかあるまい。ともかく親指の腹ではなく、指先で画面のポイントポイントに触れるようにする必要がある。指先で打つには、指が立っていなければなるまい。2本の親指先がそれぞれ画面上空から正しく下の標的ポイントを打つという感じにする必要があろう。

つまり、上から打ってやる必要があるのだ。指を寝かせぬため、本体の持ち方を変えてみることにした。親指を立てて画面までの距離を確保するには本体を包みこむように立体的に持たなければならない。人差指、中指で本体を下面から支え、薬指は曲げてその第2関節部分で本体下部を両脇から挟むようにする。これで親指が自由になる。

さて、どうだ?試してみると、悪くない。と言うより、良いようだ。これはなかなかに打ちやすい。

それ以来、このように打っている。結局、かなり打ち間違いを減らすことができた。


速さという点で言えば片手でフリック入力というのもありだとは思うが、アルファベットの切り替えなどどうも違和感があってしっくり来ない。どちらも慣れと言えば慣れなのだが、汎用性の高いQWERTYを使いたい。
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2010/08/22

文庫のGoethe



Goetheの自然科学論文集が筑摩の学芸文庫五冊分として出ている。色彩論一冊の他に形態学論集として植物編と動物編が、また地質学論集として鉱物編と気象編と三分野が上智の木村直司によって翻訳、編集されているものだ。この間、気象編の五冊目が出て完結したらしい。文庫のシリーズとして足掛け何年になるのか、同じ学芸文庫だが色彩論は通常の白表紙で残りは自然科学シリーズの青表紙版である。色彩論以外の四冊は一年余りの間に続けざまであった。こんな時代によくまとめて出してくれたものだ。色彩論こそ岩波の復刻で菊池栄一訳が手に入るとはいえ、後のものは全集くらいで、しかもその一部が読めるだけではないだろうか。その全集だとて、人文書院版は自然科学論文自体が少なかったし、そもそもとうに絶版であろう。潮の方には結構入っていたと思うが、こちらもカタログに残っているかどうか。何れにせよまとまったものを文庫で手軽に揃えて読めるというのはいい。文庫本ならそれを持ち、実践の人Goetheに倣って戸外に飛び出してみてもいいのだ。


※Blogger-droidというBloggerへのアップロードアプリを試している。打込画面と入力の変換候補部分ががきちんと分けられているのはいい。結構いいかもしれない。
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2010/05/30

Android携帯の購入とPCの検討

性能の限界を感じることが多くなり、思わず「クソッ!」などと口を衝いて出ることもしばしばとなるに及んで、PCと携帯のうちから先ずは携帯を新しくした。アンドロイドフォンであるHTCのDesireである。ソフトバンクから出ると聞いて4/9に予約し、4/27の発売日に手に入れた。




『ウェブ進化論』以来Google贔屓だから新型iphoneの噂にも(あまり)心惑わされず、これからも荒削りながら進化を止めないであろうAndroidを選択したのである。Desireの発売が発表される前はXperiaかとも思っていた。だが、Androidというものの価値はChrome Browser同様素早い進化にあろう。1.6より2.1がいいに決まっているし、2.2やその後のアップデートもあるだろう。ならばである。電波の信頼性は言うまでもなくDocomoであるにしても、スピード、素早さの点でファームウェアのアップデートが秋になるというのは何ともいただけなかった。そもそもGoogleというものの真価はスピードにこそあるだろうに、そのスピード感を思うとこのDocomoの遅さには今後ともイライラさせられるに違いないのだ。そう考えるとSONYらしい味付けも余計な気がして気に食わず、結局ソフトバンクの発表を聞いて迷わずDesireとしたわけだった。

それでどうだったかと言えば、最新のアンドロイドフォンは実に快適である。ストレスなく動くし自由度も高い。一昔前のSymbian機であるN95からの乗り換えだっただけに尚更でもあったわけだが、思っていた以上にスマートフォンの進化は進んでいたことを知った。一番感心したのはGoogleサービスとの直結である。常に同期されているためにPCと携帯でほぼシームレスに使うことができる。各ソフト間でもGoogleを介した同期と連携が進んでいる。カレンダー、メール、連絡先、ノート、マップほとんどのものが連携している様は見事である。その分バッテリーはきついが、家にいる時と外に出た時であまり差のない情報との関わりが実現されることになる。これはいい。

こんな携帯を落としたら大変なことになるが、それはさておき、便利なことではある。この調子で行けば携帯端末が現在のノートパソコンと性能上完全に同等となる日も遠くはあるまい。

と言うわけで、次はPCである。

2010/03/28

PCかMacか

2004年の春モデルだったか夏モデルだったか、ほぼ6年が経過して、かつてはそこそこだった私のパソコンも最近ではその非力さが目立つようになってきた。iTunesでCDを取り込むのに時間がかかり、その最中に他の作業をするのがスムーズでないなどというのはそれはそれなのだが、Browser上の作業自体で十分なだけのスムーズさを欠くのはストレスである。例えば、さほど画質の高くもないFlash動画の再生が途切れたりズレたりするのは実に苛立たしい。ページに埋め込まれたYou Tubeの動画やBayerischer Rundfunkのライブがまともに映らなければ、それは読んでいる本のページが破けているのと同じことではないか。動作や作業そのものに難があるのは困るのである。時間はかかってもリッピング自体ちゃんとできるのと再生自体に不備があるのではそもそも話が違うわけだ。

いや、もっと言おう。無論、時間もかからない方がいいのだ。メールやリーダー、マップやドキュメントといった基本的なGoogleサービスも、Google Earthもサクサク動いてこそのものであろう。仮に本を読んでいたとして、或いはノートをとっていたとして、次のページがうまくめくれなければ不便でもあれば不愉快でもあろう。そういうことである。今後ますますBrowser上のサービスが大きく重要度を増していくに違いない中で、それらが十分に速くないのは到底愉快なことではない。一言で言えば、みな当たり前にパッパサッサと動いて欲しいのだ。機械の都合の機械の処理待ち、こちらの作業テンポとの度重なるズレは我々の生産性と気分を損なう。便利であるべき道具に不便を強いられることが癪に触るのだ。

Goethes Arbeitszimmer
Schillers Arbeitszimmer
Fontanes Arbeitszimmer
Th.Manns Arbeitszimmer
つまり、そろそろパソコンを新しくしたいというわけだ。道具を新しくして、快適な書斎環境を整えたいのである。先立つものの心配はさておき、さてここで気になるのがPCかMacかということだ。6年前に右も左も分からず初めてパソコンを買った時とは違って、「道具としてストレスのない快適さ・便利さ」を求めたいという地点に立ち至った現在、選択の観点は自ずからCPUの処理性能やHDの容量とかだけではありえない。こう書くと「道具としての所有欲を満たしてくれるMacか」とかいう話でもしたそうに見えるが、無論そうではない。

気になっているのはGoogleのことだ。インターネット上のサービスでは、私はほぼGoogleに依存している。検索はもとより、メール・連絡先しかり、カレンダー・To doしかり、リーダーも地図もニュースも画像整理もちょっとしたドキュメントもしかりだ。諸作業の拠点となるBrowserも昨年末からはChromeをデフォルトにしている。Skypeやメッセンジャー系のものはほとんど使っていないので今は関係ないが、将来的にはGoogle TalkやVoice、Waveなどといったサービスも積極的に利用するかもしれない。もしものことを考えればリスクを分散した方がいいのかもしれぬ。が、商売や仕事に使っているわけでもなし、考えてみればダメになって本当にどうにもならず困るほどのものも無いと言えば無いのだ。それにWebサービスなら実際のところYahoo!もWindows Liveも使えるようにはしてはいるのである。ただ使い勝手の点で結局のところGoogleばかりに集中してしまった。(Yahoo!の基本的なゴテゴテ感といい、Liveのいつまでも工事現場じみた完成度の低さといい、どちらも気に入るはずもないのだ。)無論、無くなれば同じことをしようとした場合に何事であれかなり不便になる。だから、あった方が断然いいし、それがスムーズに使えれば使えるほどいいというのも言うまでもない。現在のサービスの進化、今後展開されていくであろう新サービスを考えれば、よほど事態や条件の悪化がない限りやはり依存的な利用を続けていくことになるのだろう。
実際に使っていて相対的に一番納得がいくのがGoogleのサービスということなのだが、そればかりではない。そのドン・キホーテ的なミッションには矢張り心踊らされる。
Google's mission is to organize the world's information and make it universally accessible and useful.
それが悉く検索とその商売に関連付けられているとしても、またGoogleが我々の興味や関心,嗜好や消費傾向、インターネット上の行動などを悉く監視しているとしてもだ。古今東西、全世界のありとあらゆる情報を利用可能なものにするという一見眉唾のような話も、それらの知の集積に自由に触れ利用もしてみたいと考える者にとっては素朴にありがたいものだろう。いつの日か権利や稀少性や独占や保護などの障害に関係なく、好きな本や文章に触れ、読みたい論文や貴重な資料が何でも(無料で)利用できるようになって、それらについての只今この時の議論にも関わることができるようになるのであれば単純に嬉しいのだ。全世界の図書館(と場合によっては談話室)を自分の部屋に、或いは机に、その時居る場所に、更にはポケットに持った幸せを味わいたいのである。
だから、Googleに相性がいいのはPCなのかMacなのかということである。勿論OSではなくBrowserの問題であり、所謂クラウドの問題なのではあろうが、そのBrowserの走るOSとしてはどちらがいいのか。Android問題で悪化しているAppleとGoogleの関係、Appleの閉鎖的な文化が高じてiPhoneのGoogle VoiceアプリのようにGoogleサービスを締め出していくような方向に向かっていけば、Mac用Chromeなどがなくなるようなことにならないとも限るまい。携帯と違ってそのようなことはパソコンにはないのであろうか。また、Windowsの方が常に最新のGoogleサービスを使うことができるという形がこれからも続くのであろうか。Chrome OSとその先にはいったい何が待っているのか。これからの1,2年でいろいろな要素や状況が変わってくるのであろうが。

Nexus One
まだある。具体的な購入の話として先になりそうなのが実は携帯なのであるが、この選択も同時に迷わざるをえない。パソコンの選択はMobile端末としてのスマートフォンの選択にも関わってくる。NOKIAが撤退してしまったから、今のN95の後を何にするか思案している。N95を買った時はまだiPhoneはなく、Androidは影も形もなかった。しかし今は両方ある。今年中には出るであろう次期iPhoneに期待をかけるか、4月には早々に出るAndroid携帯にするか。iPhoneならそのままパソコンもMacにしてAppleで揃えてしまうという手もあるだろう。入ってしまえば快適に違いないAppleの生態系内で暮らすのである。確かにAppleは魅力的だ。音に聞くユーザーフレンドリーな使用感、洗練され磨き上げられたデザイン、物としての高い完成度は果たしてどのようなものであろうか。実に心惹かれるものがあるし、まだそれを知らぬということだけでも興味はつのる。だが同時に、やはり音に聞こえるその秘密主義と制限、不自由さについても同じくらい気になるのである。

Appleの世界は謂わばエデンの園のようなものらしい。そこは確かに楽園には違いないが、人間の自由はその狭い楽園内に制限されて人はそこから出ることを許されないかのようである。Appleの使用には信仰告白が必要なのであろうか。人はMacを前にして選択を迫られるかのようだ。蛇の誘惑に乗ることなく幸福なエデンの園にとどまるか、楽園を喪失しても人間としての自由を求めるか。もしかするとJobsは失楽園以前の人間の姿を求め、原罪を負った人間存在の救済を夢見ているのかもしれない。だがしかし、そこは我々人間のことである。即ち、楽園にとどまっていられるわけはないということだ。それが人間の選択というものであろう。

2010/01/30

いまだ熱き教育者 : Helmuth Rillingのロ短調ミサ1

Helmuth Rillingのロ短調ミサを聴きに川内萩ホールにやって来たところである。コンサートはオーケストラ・アンサンブル金沢の仙台公演という形になっていて、合唱は仙台と盛岡の二つの合唱団が合同で歌うことになっている。楽しみな公演の開場、開演を待つ時間というのもまた乙なものだ。

本日の公演を知ったのは昨年の秋のことだった。秋のオペラ協会公演の際にもらったチラシの中に、(まだ簡単な)今日の公演の案内も入っていて、1つは地元の2つの合唱団については全く知らなかったのだが、秘かに気にはしていたのである。Bachの声楽曲の大きなものが仙台でやられるというのも稀であろう。前売り自体は昨年の10月末には始まっていたのだったが、実際にRilling、萩ホールならば矢張り聴いてみようかという気になってチケットを手にいれたのは既に目出度く年も開けた1月8日の金曜日になってからのことであった。実はこれが結構ギリギリセーフだったようで、その日までは呑気に当日券でも大丈夫ではないかと少々高を括っていたのであったが、金曜日に仕事を終え何の気なしにプレイガイドに寄ってみるともう席を選ぶ余地がほとんどなくなっていたのであった。これには少々驚かされた。萩ホールが一杯になった話などここ1年ついぞ聞いたことがなかったのだ。Rillingゆえか、ロ短調ミサゆえか、地元の合唱団ゆえか、それは分からなかったが、慌てて買い求めることにしたわけである。もっともそこにあったわずかに残っていた席は1階は近すぎるか端すぎたし、2階も思わしくなく、結局、藤崎、ヤマハ(完売であった)、カワイと歩いて最後に三越のプレイガイドで27列のほぼ中央という席を見つけた次第である。2階の最上席というわけにはいかぬが、そのワンブロック後ろ(なだけ)であるから、そんなに悪くはないはずだ。

開場まではまだ一時間半もの時間がある。萩ホールの駐車場はかなり不足しているということであったし、大学構内の道が混んだらいかにも厄介そうでもあった。チケットのこともあったから早めに来てみたわけである。スイスイとやって来て、まだいくらもとまっていない駐車場に早々と車をとめて、今は東北大川内北キャンパス内のまだ真新しい学食(キッチンテラス Couleur)の席に座って、なじかは知らねどカレーを食って、14:15分の開場時間を待っているのである。外はさほど強くもないが雨が降っている。食堂はこの1月に出来たばかりだそうだ。近くにコーヒーの飲めるところはないかと駐車場で誘導をしていた学生に尋ねて来たのだったが、土曜日のせいか聞いたカフェの方は残念ながら休みであった。そこで、そんなつもりもなかったのだが、結局、学生達に混じって定番のカレーを食っているのだ。コーヒーがカレーに化けたのである。何種類かあるカレーの中のレギュラーカレーで、大中小とあるうち中サイズ260円也で、さすがに安いものだ。昔ながらの家のカレーという感じでインド人には物足りないだろうが、意外と具もしっかりしていてライスが固めなのは好みである。定番カレーは矢張り人気なのか早くもなくなりかけていた。

さて、学生時代を思い出しながら、かつまたカレーを食いながらミサの典礼文を予習しているわけだが、いや、私のラテン語も随分怪しくなったものだ。昔から怪しかったといえば怪しかったのだが、大分にあやふやである。典礼文など学生時代にラテン語講読で読んだキケロやヨハネに比べれば全く単純なものではある。全く単純なものなのだが、対訳を見なければ分からぬところが多い。いや、これはいかん。これでは途中Credo辺りで歌っている歌詞が分からなくなりそうだ。演奏中に対訳をごそごそやるのも気に喰わないので、もう少し頭に入れておきたいところだ。カレーを食ったのは正解かどうか分からぬが、早く来たのはこうしてみれば正解であった。まだ予習時間はある。開場時間までには雨も止みそうであるし。では、後は演奏後としよう。



Credo




LateinischDeutsch

Credo in unum Deum,
patrem omnipotentem, factorem caeli et terrae,
visibilium omnium et invisibilium.
Et in unum Dominum Jesum Christum,
Filium Dei unigenitum.
Et ex Patre natum ante omnia saecula.
Deum de Deo, lumen de lumine,
Deum verum de Deo vero,
genitum, non factum,
consubstantialem Patri:
per quem omnia facta sunt.
Qui propter nos homines et propter nostram salutem
descendit de caelis.
Et incarnatus est
de Spiritu Sancto
ex Maria Virgine,
et homo factus est.
Crucifixus etiam pro nobis
sub Pontio Pilato;
passus et sepultus est,
et resurrexit tertia die, secundum Scripturas,
et ascendit in caelum,
sedet ad dexteram Patris.
Et iterum venturus est cum gloria
iudicare vivos et mortuos,
cuius regni non erit finis.
Et in Spiritum Sanctum, Dominum et vivificantem:
qui ex Patre Filioque procedit.
Qui cum Patre et Filio simul adoratur
et conglorificatur:
qui locutus est per Prophetas.
Et unam, sanctam, catholicam
et apostolicam Ecclesiam.
Confiteor unum baptisma
in remissionem peccatorum.
Et expecto resurrectionem mortuorum,
et vitam venturi saeculi. Amen.
(lateinische Fassung nach dem Messbuch der katholischen Kirche)


Wir glauben an den einen Gott,
den Vater, den Allmächtigen, der alles geschaffen hat, Himmel und Erde,
die sichtbare und die unsichtbare Welt.
Und an den einen Herrn Jesus Christus,
Gottes eingeborenen Sohn,
aus dem Vater geboren vor aller Zeit:
Gott von Gott, Licht vom Licht,
wahrer Gott vom wahren Gott,
gezeugt, nicht geschaffen,
eines Wesens mit dem Vater;
durch ihn ist alles geschaffen.
Für uns Menschen und zu unserem Heil
ist er vom Himmel gekommen,
hat Fleisch angenommen
durch den Heiligen Geist
von der Jungfrau Maria
und ist Mensch geworden.
Er wurde für uns gekreuzigt
unter Pontius Pilatus,
hat gelitten und ist begraben worden,
ist am dritten Tage auferstanden nach der Schrift
und aufgefahren in den Himmel.
Er sitzt zur Rechten des Vaters
und wird wiederkommen in Herrlichkeit,
zu richten die Lebenden und die Toten;
seiner Herrschaft wird kein Ende sein.
Wir glauben an den Heiligen Geist, der Herr ist und lebendig macht,
der aus dem Vater (und dem Sohn) hervorgeht,
der mit dem Vater und dem Sohn angebetet
und verherrlicht wird,
der gesprochen hat durch die Propheten,
und die eine, heilige, katholische*
und apostolische Kirche.
Wir bekennen die eine Taufe
zur Vergebung der Sünden.
Wir erwarten die Auferstehung der Toten
und das Leben in der kommenden Welt. Amen.
(deutsche Fassung nach dem Messbuch der katholischen Kirche)
* evangelische Textfassung im Glaubensbekenntnis von Nizäa-Konstantinopel: „und die eine, heilige, allgemeine und apostolische Kirche.“
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