2010/03/28

PCかMacか

2004年の春モデルだったか夏モデルだったか、ほぼ6年が経過して、かつてはそこそこだった私のパソコンも最近ではその非力さが目立つようになってきた。iTunesでCDを取り込むのに時間がかかり、その最中に他の作業をするのがスムーズでないなどというのはそれはそれなのだが、Browser上の作業自体で十分なだけのスムーズさを欠くのはストレスである。例えば、さほど画質の高くもないFlash動画の再生が途切れたりズレたりするのは実に苛立たしい。ページに埋め込まれたYou Tubeの動画やBayerischer Rundfunkのライブがまともに映らなければ、それは読んでいる本のページが破けているのと同じことではないか。動作や作業そのものに難があるのは困るのである。時間はかかってもリッピング自体ちゃんとできるのと再生自体に不備があるのではそもそも話が違うわけだ。

いや、もっと言おう。無論、時間もかからない方がいいのだ。メールやリーダー、マップやドキュメントといった基本的なGoogleサービスも、Google Earthもサクサク動いてこそのものであろう。仮に本を読んでいたとして、或いはノートをとっていたとして、次のページがうまくめくれなければ不便でもあれば不愉快でもあろう。そういうことである。今後ますますBrowser上のサービスが大きく重要度を増していくに違いない中で、それらが十分に速くないのは到底愉快なことではない。一言で言えば、みな当たり前にパッパサッサと動いて欲しいのだ。機械の都合の機械の処理待ち、こちらの作業テンポとの度重なるズレは我々の生産性と気分を損なう。便利であるべき道具に不便を強いられることが癪に触るのだ。

Goethes Arbeitszimmer
Schillers Arbeitszimmer
Fontanes Arbeitszimmer
Th.Manns Arbeitszimmer
つまり、そろそろパソコンを新しくしたいというわけだ。道具を新しくして、快適な書斎環境を整えたいのである。先立つものの心配はさておき、さてここで気になるのがPCかMacかということだ。6年前に右も左も分からず初めてパソコンを買った時とは違って、「道具としてストレスのない快適さ・便利さ」を求めたいという地点に立ち至った現在、選択の観点は自ずからCPUの処理性能やHDの容量とかだけではありえない。こう書くと「道具としての所有欲を満たしてくれるMacか」とかいう話でもしたそうに見えるが、無論そうではない。

気になっているのはGoogleのことだ。インターネット上のサービスでは、私はほぼGoogleに依存している。検索はもとより、メール・連絡先しかり、カレンダー・To doしかり、リーダーも地図もニュースも画像整理もちょっとしたドキュメントもしかりだ。諸作業の拠点となるBrowserも昨年末からはChromeをデフォルトにしている。Skypeやメッセンジャー系のものはほとんど使っていないので今は関係ないが、将来的にはGoogle TalkやVoice、Waveなどといったサービスも積極的に利用するかもしれない。もしものことを考えればリスクを分散した方がいいのかもしれぬ。が、商売や仕事に使っているわけでもなし、考えてみればダメになって本当にどうにもならず困るほどのものも無いと言えば無いのだ。それにWebサービスなら実際のところYahoo!もWindows Liveも使えるようにはしてはいるのである。ただ使い勝手の点で結局のところGoogleばかりに集中してしまった。(Yahoo!の基本的なゴテゴテ感といい、Liveのいつまでも工事現場じみた完成度の低さといい、どちらも気に入るはずもないのだ。)無論、無くなれば同じことをしようとした場合に何事であれかなり不便になる。だから、あった方が断然いいし、それがスムーズに使えれば使えるほどいいというのも言うまでもない。現在のサービスの進化、今後展開されていくであろう新サービスを考えれば、よほど事態や条件の悪化がない限りやはり依存的な利用を続けていくことになるのだろう。
実際に使っていて相対的に一番納得がいくのがGoogleのサービスということなのだが、そればかりではない。そのドン・キホーテ的なミッションには矢張り心踊らされる。
Google's mission is to organize the world's information and make it universally accessible and useful.
それが悉く検索とその商売に関連付けられているとしても、またGoogleが我々の興味や関心,嗜好や消費傾向、インターネット上の行動などを悉く監視しているとしてもだ。古今東西、全世界のありとあらゆる情報を利用可能なものにするという一見眉唾のような話も、それらの知の集積に自由に触れ利用もしてみたいと考える者にとっては素朴にありがたいものだろう。いつの日か権利や稀少性や独占や保護などの障害に関係なく、好きな本や文章に触れ、読みたい論文や貴重な資料が何でも(無料で)利用できるようになって、それらについての只今この時の議論にも関わることができるようになるのであれば単純に嬉しいのだ。全世界の図書館(と場合によっては談話室)を自分の部屋に、或いは机に、その時居る場所に、更にはポケットに持った幸せを味わいたいのである。
だから、Googleに相性がいいのはPCなのかMacなのかということである。勿論OSではなくBrowserの問題であり、所謂クラウドの問題なのではあろうが、そのBrowserの走るOSとしてはどちらがいいのか。Android問題で悪化しているAppleとGoogleの関係、Appleの閉鎖的な文化が高じてiPhoneのGoogle VoiceアプリのようにGoogleサービスを締め出していくような方向に向かっていけば、Mac用Chromeなどがなくなるようなことにならないとも限るまい。携帯と違ってそのようなことはパソコンにはないのであろうか。また、Windowsの方が常に最新のGoogleサービスを使うことができるという形がこれからも続くのであろうか。Chrome OSとその先にはいったい何が待っているのか。これからの1,2年でいろいろな要素や状況が変わってくるのであろうが。

Nexus One
まだある。具体的な購入の話として先になりそうなのが実は携帯なのであるが、この選択も同時に迷わざるをえない。パソコンの選択はMobile端末としてのスマートフォンの選択にも関わってくる。NOKIAが撤退してしまったから、今のN95の後を何にするか思案している。N95を買った時はまだiPhoneはなく、Androidは影も形もなかった。しかし今は両方ある。今年中には出るであろう次期iPhoneに期待をかけるか、4月には早々に出るAndroid携帯にするか。iPhoneならそのままパソコンもMacにしてAppleで揃えてしまうという手もあるだろう。入ってしまえば快適に違いないAppleの生態系内で暮らすのである。確かにAppleは魅力的だ。音に聞くユーザーフレンドリーな使用感、洗練され磨き上げられたデザイン、物としての高い完成度は果たしてどのようなものであろうか。実に心惹かれるものがあるし、まだそれを知らぬということだけでも興味はつのる。だが同時に、やはり音に聞こえるその秘密主義と制限、不自由さについても同じくらい気になるのである。

Appleの世界は謂わばエデンの園のようなものらしい。そこは確かに楽園には違いないが、人間の自由はその狭い楽園内に制限されて人はそこから出ることを許されないかのようである。Appleの使用には信仰告白が必要なのであろうか。人はMacを前にして選択を迫られるかのようだ。蛇の誘惑に乗ることなく幸福なエデンの園にとどまるか、楽園を喪失しても人間としての自由を求めるか。もしかするとJobsは失楽園以前の人間の姿を求め、原罪を負った人間存在の救済を夢見ているのかもしれない。だがしかし、そこは我々人間のことである。即ち、楽園にとどまっていられるわけはないということだ。それが人間の選択というものであろう。