2008/11/30

創に言葉ありき:InbalのMahler

レシピや調理は教えられても、こと肉を焼くのに関しては天分だと誰か言ってやしなかったろうか。(どこかでそんなふうなことを読んだ覚えがあるのだが。)
修練して習い覚えれば、それでも人並み以上に上手に焼けるには違いない。しかし、時々の素材や条件に応じて、正にその時、その場で、その素材を真に見事に焼き上げるには更に加えて天分が必要で、厳密に言えばそれは教えることができないということなのだろう。

同じようなことはオーケストラの演奏芸術についても言えないだろうか。オーケストラを指揮して音楽を奏でることのどの部分が肉を焼くことに相当するのか、それについては異論もあろうが、私にはテンポやリズム感、歌い回しの感覚もさることながら、特に響きのバランスに対するセンスというのがそれに当たると思われる。ピアノでもヴァイオリンでも奏者によって楽器の音色やハーモニーの感触が違うように、指揮者によってオーケストラの音色や響きのバランスが大きく異なってくるのは確かなことだ。澄んでいたり、粘っていたり、開放的で明るかったり、緻密で重厚だったり、品格があったり、なかったり、たたずまいとでも言おうか、普通に出てくる音のたたずまいがそもそも異なるのだ。
リズム、メロディー、ハーモニーの三要素の中で前二者は意図的な操作が比較的容易なものであろう。その点、ハーモニーや音色、響きには意識的な操作を越えた、自ずからなる指揮者の個性の刻印が押されているように思える。我々がコンサートやレコードで、ある時代の、ある作曲家の、ある曲を聴く場合、奏でられる音楽のバランスには(最近の古楽流のバランスなど)時代の趣味や様式という大前提によるところも大いにあろうけれど、その上でなお実際の精妙なるバランスを(意識的・無意識的に)コントロールしているのは指揮者の見識であると同時に天分であろう。Bayreuthの奈落に対する適性という話もよく耳にするし、修業や経験、探究や見識の他に指揮者自身の身に備わっている天賦のもの(そして、それに根ざしているに違いない趣味やこだわり)こそ実際に演奏会場に響くオーケストラバランスを作り出しているのではないか。

さて、こんなことを思ったのも先日聴いていたラジオでたまたまEliahu Inbalの名前を耳にして、ふと8年前の印象深い演奏会のことを思い出したからである。

それはNHK開局75周年の秋、2000年の10月24日のことで、久しぶりにInbalが元の手兵のFrankfultの放送オーケストラを率いて来て、お得意のMahler5番(Mahler: 5. Sinfonie  Radio-Sinfonie-Orchester Frankfurt)を振るというのでNHKホールに聴きに行った時のことである。そして、この時のMahlerが実にInbalならではの、(もしかするとあの頃のInbalでしかあり得なかったかもしれない)まさに独特で誰とも比較しようのないものだったというわけである。

(なりばかり大きくて気に喰わない)NHKホールには当然いつもの友人と出かけた。いつも通り早めに着いた我々はまい泉のカツサンドを食べ(こちらは気に入っている)腹ごしらえをして、それではいざと聴いたわけだったのだが、この時初めてInbalのMahlerをまともに聴くこととなった友人は、聴きながら大いに戸惑い且つ驚いて、以来自身のMahler観の変更を余儀なくされたのであった。

その時のInbalのMahlerはどんなものであったろう。友人が聴き馴染んでいたのは(スタイルこそ違え)KarajanやBernsteinのMahlerで、楽器がよく鳴らされて、たっぷりした響きがよくブレンドされ、どこかが突出したり薄くなったりすることなどまずあり得ないウェルバランスであったから、Inbalの各楽器やセクションがポンポンと露わに突出してくる、骨組みもあからさまなMahlerにすっかりびっくりしてしまったのである。(その時の演奏を評して鈴木淳史は「変態的演奏」と驚き呆れ〔賞賛し〕ていたのを後で知ったが)あのマニエリスム的とも表現主義的とも好き放題とも言える演奏は確かにノーマルで常識的な演奏では全くなかった。録音をはるかに上回る、一言で言えば「そこまでやるか」という面白い演奏で、フィナーレなどあまりの極端さに"ヒヒヒヒヒヒヒヒ"と何度も笑わせられたのだった。

こう書いてヒッチャカメッチャカ、滅茶苦茶な演奏を思い浮かべられると困るので言っておけば、部分部分は実に克明に整然と破綻なく、見事に統一されて全く見事だったのである。フレーズの一つ一つに至るまで弦も管も打楽器も、ソロ、合奏、各パート、各セクションともみな細部まですっかり揃っているのだが、揃ってべらぼうなことをしているのである。音は当然、Inbalのあの濁りのない、鋭く透明な、それでいて情念の粘りと重みを帯びた、薄いようで厚い例の音で、それでもってそのフレーズ、そのブロック、その楽章と全て曖昧なことなくきちんと揃えて、整然克明に極端なことをするものだから、
I. 明瞭明晰克明な葬送

II. 明瞭明晰克明な阿鼻叫喚

III. 明瞭明晰克明な奇想

IV. 明瞭明晰克明な白日夢

V. 明瞭明晰克明な大騒ぎと大団円













といったクラクラするようなへんてこ極まりない世界が現出したのである。

そしてその時、最も強い印象を与えられたのが、(これが実に不思議だったのだが)明晰克明に奏される各フレーズの一節一節がメロディーと言うよりもむしろ、まるで言葉の一言一句文字の一字一句であるかのように聞こえたことなのである。ソロもセクションも全体も、明晰な言葉で、普通ならば表現することの難しい玄妙なる情念を当たり前のように、しかも克明に語り、記述していくという感じなのである。更に言えば、明瞭明晰な言葉がその場で克明に語られ、記されることで、それによって同時にその世界が生成し、今目の前で形造られていくという感じなのであった。実に言葉のように語られ、記されることで初めて諸々の存在者が立ち現れ出でくる音楽の世界、こんなMahlerはInbalでしか有り得まい。


普通演奏を聴いていると、当然作曲家が書いて出来上がっている作品が先に在って、後からそのイメージを追い求め、なぞることで演奏が完成するという感じがするのだが、Inbalの演奏を聴いているとそれが逆に、書かれた作品はまだ存在しておらず、奏者が言葉として語り、記していくそばで初めて出来上がっていって、全てが語り、記述された後になって作品が完成するのではないかという奇妙に逆転した印象をもたらされたのである。

響きにまつわる暗さも、また印象的だった。透明な音で明瞭明晰なのだが、全く明るくない、つまり何ともほの暗いのである。濁りがなく澄んでいるのに軽やかでも乾いてもおらず、反対に地下洞窟の泉の水のように静かに暗く重いのである。あれほど克明明晰であるのに、Inbalの場合、Mahlerの音符を照射する明かりは物の隅々まで照らし出す地中海的・ギリシャ的太陽光ではない。やはりそれはあの7つに枝分かれしたユダヤの燭台の蝋燭の光なのではあるまいか。トーラーやタルムードの律法を燭台の明かりで一字一句克明に読んでいくうちに、或いは記していくうちに、ついに言葉そのものが意思を持ったもののように自ら自分自身を語り出す。暗い世界で言葉が自在に飛び交っている。

演奏はいつも通りInbalらしい熱狂的なフィナーレを迎えて、客席は大いに沸いたのだが、終演後の印象はむしろサラッとして後を引かず、全くもたれなかった。これも、思えば不思議なことである。没入と熱狂がありながら明瞭明晰克明で、透明な響きで骨組みが見通しよく(よすぎるくらい)あからさまに曝されながら暗く重い情念が激しく渦を巻き、暗く粘っているのにすっきりとしてもたれず、精妙静謐であるかと思えば疾走し大爆発する。そしてそんな部分部分が全て音楽であると同時に語られた言葉であるかのように聞こえるのである。普通なら相反する要素が同居するこの特殊な演奏をモダンと言うのか、ポスト・モダンと言うのか、或いはユダヤ神秘主義と言うのか、はたまたその融合と言うべきか知らぬが、その時我々はInbalならではとしか言いようのない演奏を聴いたわけである。

コンサート後、少し歩いて頭を冷やした後、入ったドイツ料理屋でいつものようにビールをグビグビ傾けながら友人と私はあれこれ印象を話し合った。私は飛び交う言葉について話し、友人はまだ混乱していた。都響の主席に就任した (随分と太った)Inbalは今どんな演奏をしているのだろう。もしまだあの時のような演奏を(或いは更にそれを上回る演奏を)しているなら是非聴いてみたいものだ。

"Am Anfang war das Wort, und das Wort war bei Gott, und Gott war das Wort.Dasselbe war im Anfang bei Gott. Alle Dinge sind durch dasselbe gemacht, und ohne dasselbe ist nichts gemacht, was gemacht ist. In ihm war das Leben, und das Leben war das Licht der Menschen. Und das Licht scheint in der Finsternis, und die Finsternis hat's nicht begriffen"       (Joh.1,1)

2008/11/02

回想のラーメン-春夏冬/隠國(こもりく)

「いい仕事してますねえ…!」とはTVで有名な骨董鑑定家の言葉だが、確かに惚れ惚れするような「いい仕事」を前にすると清々しい感動を覚えるものだ。我々は感心し、

  (いやあ、これは大したものだ!)

感服させられるわけである。

  (う〜む、実に見事だ!)

そして清々しくも晴れ晴れとした気分が訪れる。その気分は格別で、大げさに言えばくたびれかけていた人間性の再生と復活であり、匠の技への信頼の回復である。圧倒的な感動となるとこれはまた話が別だが(上のような批評的言辞では間に合わない)、普段の日常生活の場においては「いい仕事」と「清々しい感動」というのは物のクォリティーを測る1つの基準ともなろうか。官から民間まで倫理感の壊滅的な低下がもたらす数々の劣悪さが至る所で目立っている現在、「いい仕事」というのは一服の清涼剤であるばかりでなく、1つの救いですらあるかもしれない。

人生も半ばを過ぎて、私もなるべく納得出来るいい物に触れていたい。というより、このところめっきり不出来な物に対するこらえ性がなくなってしまったのである。口の悪い者は、「それは老化だ」と言う。ある者は、「お前は前からそうだ」と言う。別の者は、「そんな大したもんじゃあるまい」と言う。どれも思い当たるが、仮に我々が現代という時代の病に多かれ少なかれ侵されているとしたら、クォリティー・オブ・ライフの観点から言っても「いい仕事」に触れることが極めて重要なことであるのは確かだ。 本物のいい仕事に触れ、自らすっくと立つ気概を新たにする機会を持つべきであろう。


 さて、そうであるとすれば、”美味いラーメン”というのもその1つである!(!?)


あれは、どんぶり一杯の中に完結、完成する一つの作品であって、スープと麺と具の三位一体のアンサンブルとハーモニーの妙である。それでいて庶民の財布の紐の許容範囲に十分に収まってくれるというのも有り難い。三ツ星レストランや高級料亭ではそうはいくまい。行く店さえたがえなければ、千円足らずで「いい仕事」を味わえるという点でラーメンというものは貴重である。

神奈川時代、コンサートにもよく行ったが、ラーメン屋にも劣らずによく行ったものである。中には通ったと言っていい店もある。これは自称ラーメン評論家の(悪しき)友人の薫陶宜しきを得て、あちこち一緒に食べ歩いたことによるのだが、今思い出しても逸品としか言いようのないものを出す店が何軒かあった。

例えば、旨味の塊としか言いようのなかった本厚木”本丸亭”の塩ラーメン




例えば、初めて食べた時の衝撃をいまだに忘れない”中村屋”の完成・洗練された逸品




例えば、いい時のスープの奥深さでは今でも随一と思える  ”支那そばの里”の醤油ラーメン





そして例えば、今回取り上げる2店などが思い出されるのである。

そこで初めて私は、美味いラーメンが文字通り人を感動させるということ、ラーメンというものによって心底感服させられることがあるのだという事実を知ったのである。そして、この事実によって神奈川時代、私のクォリティー・オブ・ライフと血圧(通った店では敬意を払って毎度スープを飲み干していたことから)の値は一面著しく上昇したわけであった。

その上昇をもたらした名店の筆頭は、相模原にかつてあったが今はない”春夏冬(しゅんかとう)”であり、愛川町に今でもある”隠國(こもりく)”であった。"筆頭"と言いながら2つ挙げたのは店主とスタッフが同じだったからである。日中に営業する隠國に対して春夏冬は夜間の営業で、そこでスタッフのローテーションも行われていたようだが、出されるラーメンの目指す方向も大きく異なっていて、透明感と艶のある、すすり心地の絶妙な手揉み縮れ麺に魚介の風味と旨味が強烈に効いた獣魚ダブルスープという同じ土台の上にも、それぞれきちんと店として住み分けがなされていたのは好ましかった。春夏冬は16号線から相模原駅とは逆方向に2、3本入ったきりの比較的行きやすいところだったので、かなりの期間ほぼ毎週出かけていた。もう一方の隠國はその名のとおり相模川を越えた(こんな所にあるのかという)奥地にあり、夕方までしかやっていないこともあって、あまりしょっちゅうという具合にはいかなかったが、それでも機会を見つければ、また趣の異なる一杯を求めてドライブがてら喜んで出かけたものである。


味の方は、春夏冬が少々の濁りを交えて野趣に富んだ益荒男ぶりなら、隠國は澄み切って繊細なたおやめぶりで、対照的な面白さであったが、どちらも私の口にはよく合って、1年強もの間、三日にあげずとは言わないが七日にあげずにはどちらかを食していた。いわゆる完成度の高さでは隠國であるが、春夏冬のあえて雑味を残して変にエネルギーを矯めてしまわぬ野武士のような力強さも捨てがたく、(残念ながらそのものの写真は無いのだが)燻玉に部位の異なるチャーシュー、海苔その他という(いわば全部のせだが)「謎中スペシャル」というものを愛好した。腹をすかして、あるいはあまり腹をすかしていなくても、目の前の厨房をコの字型に囲むカウンターに、つめてせいぜい8人ぐらいしか座れない狭苦しいおんぼろな店で、出来上がった謎中スペシャルのスープの最初の一口をすすると文字通り五臓六腑に染み渡る思いがしたものである。

というわけで、神奈川時代の(もう今となっては考えられない)食べ歩きによって私のラーメンの基準はいつの間にかこのラインとなったのだが、こうなると今度はなかなか好んで行きたくなる店というものを近くで見つけるということは難しくなった。というより、今では回想で十分なのである。(現にこちらに帰ってきてから食べたラーメンは片手で数えることが出来るのである。5年前には考えられなかったことだ。)自分の内を覗き見れば、ずいぶん以前から隠居的生活・隠者的生活への密やかな志向はあったのだが、ラーメンに関していえば早々と現役を退いたという感じとなった。現役復帰の日が来るかどうかは今のところ不明である。

2008/10/27

オーディオ・(オカルト系)アクセサリー ”名器の響き ゴールドチップ”

昔、(今の”クライナ&プルートン”である)サウンド・ミネの社長に

   「いや、CASTORPJPさん、オーディオはオカルトじゃありませんよ。」

と言われて

   「無論そうでしょうね。」

とさも当然の顔で応えた私だが、実のところそちら系のオーディオ・アクセサリーが嫌いではない。

特に意識してはこなかったが、振り返ればこれまでも、理屈にかなった正統品の他に、時々不思議系の異端派アクセサリーをつまんでいたことに思い当たるのである。〔クーナルの"サウンド・オブ・マジック"や"リボライザー"、神木(シュンモック)という名に覚えのある方もあろうか。〕つまり、感心したり苦笑したりしてきたわけだが、今回は感心した方の話である。

どんなきっかけであったか、1、2年ほど前から秋葉原のローカル・メール・オーダーで書いている”エンゼルポケット別館号”〔つい先日"デビルポケット"(!)と改名したようだが〕というブログページを見始めて、以来ちょくちょく覗いているのだが、そこである時、れんげ工房の”名器の響き ゴールドチップ”といういかにも怪しげな商品を紹介・宣伝していたのである。初めて聞く名で、そこからは他に商品も出ていないようだし、一見して普通のオーディオ・ショップではまずお目にかかれない類の珍品であることが分かった。2cm角の厚さ3mmほどのゴールドともオレンジともつかぬキャラメル色の塩化ビニール製のチップなのだが、それには何とストラディバリウスなど世界の歴史的な名器と同一種類の”気”が封じ込められていて、それをスピーカーなどに貼るだけで名器特有の超強力な気がほとばしり出るのだという。6枚セットで¥3,500也と試してみるには手頃なものだが、常識的に考えれば、素通りするにしくはない”とんでもグッズ”と言うほかはない。
  • そもそも”歴史的な名器”,”世界の名器”と言ってもずいぶんあるだろうが、実際そのうちのどれなのか?
  • それらの”気”の性質と状態を一体どこでどれだけ測ることができたのか? 
  • それらに共通の気や波動があるとしても、それを再生可能なものとして小さなチップ内に封じ込めることが可能なのか?
  • そもそもそれは何なのか?
 しかしながら、既にge3製品の驚くべき効果を体感して耐性と免疫が出来ていた私は「ん!」と反応したわけである。メインの装置で使えないにしても、PC用のデスクトップのミニスピーカーでその効果を試してみることができるだろう。そして、試してみたわけである。

まずは、バランスがいいので愛用している1万円余りのSONY製ミニスピーカーSRS-Z1PC(かの江川三郎氏も推奨していたものだったそうだ)の天板に貼ってみた。もっぱらNDR KulturやらWDR 3など128kbで流しているインターネット・ラジオを聴くのに使っているのだが、これは予想以上に音の質感が上がった。一聴して分かったのが音が太く厚くなったことである。同じボリュームでも聞こえる音が大きくなって量感が増した。前からge3の”丸”はドライバー部分に1個ずつ貼っていたので既にそこそこの効果は上がっていたのだが(こう言われて通じる人がどれだけいるか知らぬが)、加えて、実際に鳴っている音の他にそれと同時に存在するはずのホールの空気感、ホールトーンが前よりもぐんと聞こえるようになった。変にいじると音が鋭くなりすぎるきらいのあるミニスピーカーだが、聴き疲れせず心地よく聴けるようになったのである。”このヘンテコなチップは意外とめっけものだったかもしれない”と思い始めた私は、今度はそれをメインスピーカーにも試してみることにした。

というわけで今度は、天板の上に3枚、下に3枚それぞれ推奨されている三角形に配置して貼って、聴いてみた。サイズもそこそこに大きなトール・ボーイ型であるから、特に下なぞはユニットまでの距離もあり、効果のほどが危ぶまれたのだが、その心配の通り、これはほとんど違いが分からなかった。と言うよりも、変化が中途半端で十分な効果を上げるには量が足りないという気配であった。結果、奥行きにはさほど影響はなかったが、左右と高さのバランスがやや損なわれてしまった。この手の製品の場合、機器が馴染んで効果が発揮されるまで、それなりの時間を要するものもあるので、しばらくそのままにもしていたのだが、その後有意な変化はなかったのである。
これは残念な結果であったが、これしきのことで失望するにはまだ早い。ミニスピーカーで良好な効果が出ている以上、その素性卑しからずと考えてよかろう。使い方次第でもっと効果を上げ得るはずだ。今ではその効果をすっかり信用しているge3の”丸”や”ケブタ”だとて、貼る場所と量によって有効性が非常に異なっていたわけだから。

などと少々思案して、今度は電源関係に使ってみることにした。経験上これら”波動系”のグッズは電気の流れに関わる部分で大きく作用することが多い。そこで、家のブレーカーと我が愛車のバッテリーに貼ってみることにしたのである。(車のバッテリーには前に丸を貼って好感触を得ていた。)

結果はどうだったか?これはてき面の効果があった。当初の目論見とは異なり、体感上最も大きな変化はオーディオよりも車のエンジンの方に現れたが、その変化は正直ちょっと驚きであった。我が家の車はごく普通のセダンなのだが、これまでの感覚でアクセルを踏むとシートに体が押し付けられるのである。後ろから押されるかのような進みぶりや加速も初めての感覚である。まるでバッテリーとオイルを同時に換えたか(実際にそうしたことはないのだが)という激変で、エンジンの吹け上がりが格段に良くなった。おかげで我が家のVolkswagenは買って以来今が1番パワフルである。(カー・オーディオの方も良くなったと思うのだが、エンジンの方の印象が強くて変化の具合が今ひとつ判然としない。)

さて本来のオーディオの方だが、車のバッテリーに貼ってみたのは家のオーディオのためにも無駄ではなかった。あちこち貼ってみて分かったのが、どうやら電流のプラス側に貼った方が効果が高いということで、それまで家のブレーカーに貼って、それほどでもないと思っていたものをプラス側に貼り変えたところ、途端に効き始めたのである。その結果、デスクトップのミニスピーカーで起こったのと同様の変化がメインスピーカーでも起こったのである。

ブレーカーに貼っての効果で言えば”丸”を優に上回るのではないだろうか。”丸”は人にも使うことを前提にしているので効果も穏やかで優しいのだが、”ゴールドチップ”の方はパワーの加減をしていない感じで過激なのだ。ブレーカー部の貼り付け効果に味をしめた私は、更に以前”丸”を貼って最も効果的だったステップ・アップ・トランスのコイル周りに貼ってみることにした。(我が装置では駆動のゆとりと音の背景の透明感と静寂性の故に真空管アンプのトランスを200V用に換えている。そのためのステップ・アップ・トランスだが、これに"丸"を貼ったのがやけに効いたのである。初めは10枚くらいだったが、今では30枚ほどの丸を貼っている。そして今度は更に、その隙間にゴールドチップを貼りこもうというのである。”病膏肓に入る”と言うべきか。)ブレーカーへの貼り付け効果と”丸”の前例から推して、これはかなり期待が持てると思った。そこで試しに5枚のゴールドチップを貼り付け、早速気になるDiscを聴いてみたのである。

かけたのはWand2000年来日時のBrucknerの9番(LIVE IN JAPAN 2000)である。このDiscは、フル編成のオーケストラとなると音が飽和しがちなタケミツ・メモリアル・ホールの弱点とそこでの録音の苦労がしのばれるもので、三日通った実演の記憶との溝がなかなか埋まらず、聴いていてあまり満足のできぬものであった。個々の楽器の透明感はそこそこだが、レベルが抑えられ気味なこともあっていま一つ音に芯と力がない。音場もステージ上にやや窮屈で、楽器の輪郭が大きいわりに音場が広くないというバランスが気になるし、総奏となると雪崩状に飽和しての団子状の巨塊になってしまうこともある。つまり、音場や音像はかなり近めの席のイメージなのだが、音の力感と質感は遠い席というちぐはぐ感があって、バランスといいダイナミズムといい、あの時、堂に楽が激しく、力強く、巨大に満ち溢れた実演の凄絶さには遠く及ばず、感動の記憶がうまく収まらないのが(ぴたっととは言わぬが、そこそこは収まって欲しい)残念であった。

それがどこまで聴けるようになるか、というわけであったが、何とこれがかなり聴けるようになっていたのである。木管(抜けて通ってくると同時に上からも響いてくるところがなければならない)を基準にして実際のバランスに近づけても、これまではただのデカい音で終わってしまいがちだったところが、音に芯が通って響きの土台が堅固になり、管弦の全体のバランスが損なわれないのである。特筆すべきは低弦のボディーの充実で、質感・力感の向上と共に、両立の難しい輪郭と量感のバランスが向上した。実演の記憶と照らし合わせて十分に比較可能な、ホールでの感動が十分蘇るレベルとなったのである。コンサート・ホール最上席に(あと何歩残っているかはさて置いて)確実に一歩近づいたと言ってもいいのではないか。これは予想を上回る効果と言ってよかった。

これが”気”の効果というものであろうか。さて、怪しいが効果のある”名器の響き ゴールドチップ”というオカルト系アクセサリーをこれからも使うかと問われたなら、返答はどうなるか。
”とりあえず効果の限界が見えるところまでは使ってみようか”ということになる。
アクセサリー類を使う場合に困るのは、音や響きにそれ特有の変な癖や色合いが乗ってしまうことだが、その点これはニュートラルでフラットだ。エネルギー感がかなり増すが、きつくなったりうるさくなったりすることはないし、実演のバランスにかなり近い。ただ実は”丸”や”ケブタ”、”雷智(いかずち)”や”要石(かなめいし)”、”地鎮(ちしずめ)”や”礎(いしずえ)”といったge3環境との並存なので、相乗効果という可能性もあり、”ゴールドチップ”単体ではどうなのかという問題もないわけではない。ではあるが、現状(より充実を図ることはあっても)ge3製品の撤去は考えられないので、それとの共存可能ということが分かったこと自体、ge3愛用者にとっては有意義であったとも言える。

問題があるとすれば、上の話が、分かる人にはよく分かるだろうが、知らぬ人には全く何のまじないかとチンプンカンプンであろうなあということと、自分ではその理屈を確かめることができぬ判定不能なものを、それにもかかわらず”論より証拠”というただの結果論で承認してしまう自身のプラグマティズムが我ながら少しばかり気に喰わないということであろうか。

オカルト系アクセサリーの中にも正統派アクセサリーを上回る効果や高い対費用効果を持つ不思議な逸品があるという事実は確かにある。一方で、気や波動の力をうたうオカルト系オーディオ・アクセサリー類の理屈は、現在のところ私の悟性では理解できないという事実もある(もっとも、純粋文系を任ずる私には電気や物理の理屈も同様に理解不能に近いのだが)。結果オーライという呑気な気持ちがある反面、必ずしも”効果”即ち”善”を意味しているわけでもあるまいに、本物と偽物を見分ける目をどうするべきかという気持ちも働くのである。効果のあるものの中から、自分で分かって真に”善きもの”を選び取ることができればいいのだが。

かつて若かりし頃、”いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか Wie erlangt man Erkenntnisse der höheren Welten ?”と思い、R. Steinerの著作をかじったのだが、結局かじったままで終わってしまったことを思い出した。私の書棚には、埃をかぶっているとは言え、まだSteinerの著作が何冊も並んでいる。久しぶりに読み直してみてもよいかもしれないと思い始めた。私がオカルト系オーディオ・アクセサリーに手を出すのも、そのままでは見えない世界を見てみたいという認識拡大の欲望が今も幽かに疼くことと無関係ではないようだ。


s.趣味のオーディオ(2008/05/29)

2008/10/06

Hanns-Martin SchneidtのSchubert 2

"死"と"さすらい"と"若者"であるから、素材からすれば"さすらう若者の歌"のようなMahler調になってもおかしくなかったし、イロニーやパロディの気配が混じりこむ恐れもあったと思うのだが、全然そうはならなかった。
考えてみればMahlerにおける死はあくまで外にある他者であって、恐怖と悲惨の対象で(それゆえ克服の対象で)はあっても、決してSchubertにおけるような馴染みの隣人、旅の道連れではない。Schubertの場合、あまりに深く死に埋没しているために、かえって死を恐れる必要がないのである。死に遭って恐怖し、嘆き、戦い、さらに復活を熱望したり或いは諦観にしずんだりするのがMahlerならば(ちょっと騒々しい)、時に目を見開いて凝視することはあっても、常に傍らあるのを当然とするのがSchubertであって、これは実のところ似ても似つかぬ死の風景ではあろう。
あそこまで死の風景をあからさまに意識した以上、現代の小利口な指揮者ならMahlerがちらついたり、パロディじみたにおいが漂ったりしたかもしれない。ところがSchneidtの場合は、そこまで踏み込むのかというところまで踏み込んでも純正そのものなのである。Schneidtの貴いところは、この現代という時代にあっても決してパロディに堕さぬところだ。というわけで、死が素朴な明るさや残照のようなさみしさと常に隣り合うSchubertの風土の冥い深淵を最後まですさまじく現出させながら2楽章は終わった。
続く3楽章は一転して舞踏性の強いダイナミックなものであった。歩くのも覚束ない老人が見事にオケを踊らせている。2楽章の暗い影を引きずることもなく、対照見事に素朴な力強さに溢れていた。前の楽章で、その尋常ならざる世界の表出にすっかり舌を巻いていた私は、当然この後のトリオもさぞやと待ち構えずにはいられなかったのだが、あの懐かしくも歌に溢れた感動的なトリオはやや喰い足りない気もした。しかし、これはどうやら私の期待が無用に大きく膨らみ過ぎていたからのようだ。桁外れなまでに巨大な歌に溢れかえり、懐かしさとさみしさが破裂する壊滅的なほどの頂点を(勝手に)待っていたものだから、いかんせん相対的に物足りなく思われたものらしい。その後は再びテンションの高い気合いの入った舞踏が再開されたのだが、これはつまりSchneidtが3楽章の力点を力強い舞踏性の方に置いたということだったのかもしれず、その意味では理にかなったバランスであった。Knappertsbushばりの破格なデフォルメを過剰に期待する私の方に問題があったわけではあるが、それが可能かもしれないと思わせる特別な空気があったということでもある。

そして遂に終楽章である。終楽章は多幸症的に大いに盛り上がると同時に最後の最後にまた仰天する仕掛けが待っていた。

盛り上がりそのものは、普段滅多にお目にかかれないほどに凄まじいもので、フィナーレのあの力業(ダーッ!ダーッ!ダーッ!ダーッ!バッバラバ、バッバラバ、バッバラバ、バッバラバ)に至るまで強烈な熱気を帯びつつ、最後が近づくほどますます激しくエネルギーを放出させながら、渦を巻いて駆け上っていったのはなかなかにすごかった。

ここには確かにAdornoが指摘したSchubertの、Beethoven的ではない、新たな解放と希望の地平が開かれる可能性が見え隠れしていた。いわゆる"苦悩を通して歓喜に"至る(偉大だが単純すぎる)弁証法的なAufhebungではなく、夢の先に閃くように直観され、出口のない死の風土のわずかな切れ目からチラチラと微かに覗き見える、未だわれわれが知らずにいる新しい解決と解放の希望である。幸いにも未完成に終わらずに済んだハ長調の交響曲のフィナーレには、あの(一見馬鹿げた、しかし偉大な)天国的に続く無限の繰り返しの先に、未完成交響楽ではつかみ得なかった死の風土を突破する破壊的なポテンシャルがある。ほんとに突破できるかどうか、その直観が真に有効なのかどうかは、果たして分からぬ。分からぬが、そこにわれわれは一縷の希望を託しうるのである。

というわけで遂にわれわれの目にも、このSchubertの無限の反復と上昇のめくるめく渦の先に、約束の地が遥かに見えてきたと思われた。このまま踊りながら境界を越えて駆け抜けていけるかもしれないと信じかけていた。最後の力業も(ダーッ、ダーッ、ダーッ、ダーッ)ものすごい勢いで決まり、フィニッシュが迫り、将にもうゴールを駆け抜ける体勢に入ったその矢先である。最後の最後にさて何が待っていたろうか。

突然のディミヌエンドである。(それは指定通りらしいのだが、あれほどの効果で為されたのを私は初めて聴いた。)咲き誇っていた花が瞬時に萎れ、目の前で霜枯れの花に変じてしまったかのようであった。思いがけず死の符合が示されて、解放と新たな地平の夢に目がくらんでいたわれわれは、突然夢が夢でしかないことに気付かされて冷水を浴びせられたのである。駆け抜けたと思ったゴールは夢の楼閣のように跡形もなく消え失せて、ギョッとして目をキロキロさせるわれわれの前に広がっていたのは、白々と果てもなく広がる元と変わらぬ荒れ野であった。イカロスの飛翔の余韻でわれわれの頭は痺れていたが、さんざんさすらい歩いたあの死の風土に再び立ち戻ったことを認めないわけにはいかなかった。
そしてなお不思議なことに、この帰還は悲しいというよりも懐かしかったのである。


やられたという感じであった。終わった途端にその意味を悟らぬボンクラどもが先走った拍手を始めたが、指揮者とオケは最後の1音のまま微動だにしない。当然一旦鳴り始めた拍手はすぐに止んで、しばしの沈黙と一部の人々にはとまどいが訪れた。その後Schneidtとオケが姿勢を緩めた後、おもむろに拍手はわき、ついに改めて盛大に鳴り始めた。驚いたことに寸前まであの恐るべき演奏をしていたSchneidtは、今や再び孫のところに遊びに来た人のいいおじいちゃんといった様子に戻り、ニコニコ、ヨタヨタしながら拍手に応えている。仙台フィルも満足そうで、この熱演には神奈川フィルの石田泰尚(たかじんに似ている)の力もかなり与っていたようであったが、Schneidtはトロンボーンを始めとしていくつかのセクションを立たせて労をねぎらっていた。しかし見ていると立たせるのはあくまでも顕彰に値すると評価したセクションだけで(トロンボーンは立たせても、ホルンは立たせない)、その点ニコニコ、ヨタヨタしていても厳しい人なのであろうと想像された。すると客席に知った顔でも見つけたのか、ステージの前の方まで嬉しそうに出てきて、ある席の人を指差しながらヨタヨタと近づいて、そこでしばらくまた指差したり、ニコニコを通り越して顔を崩したりしていたのだが、これは少々愉快で客席からも笑いが起こっていた。あの演奏とこの演奏後の姿(ほとんど金さん銀さんレベル)のギャップは実に甚だしいものがあって、これもまた演奏に劣らず尋常ならざるものであった。

今の時代、こういう右顧左眄せず意味の核心を鷲掴みにする演奏というのは貴重である。それに、これこそが本質なのだという一点に絞って揺るぎがないというスタイルは、(だからそうなのかということは置くとして)様式観に欠け、柔軟性や多彩さに乏しい日本のオーケストラの弱点を目立たせない。Schneidtでなら独襖系のレパートリーを一通り聴いてみたいという気になる。

結論はこうだ。Schneidtの再客演が実現しますように。


s.Hanns-Martin SchneidtのSchubert1(2008/10/01)

2008/10/01

Hanns-Martin SchneidtのSchubert 1

Karl Richter亡き後Münchener Bach-Orchesterを率いた懐かしのHanns-Martin Schneidt が初めて仙台フィル に客演するというので聴きに行ってきた。9月27日のことである。

"懐かしの"と言ってもBachのLPを2枚持っているきりでRichterのように何でもかんでも聴いて親しんでいたわけではないから、名前は懐かしくてもその音楽は初めてのようなもので、実のところは神奈川フィルとの演奏会など最近の評判を耳にして行ってみる気になったのである。もしかするとかつてLPで聴いた古き良きドイツの響きが懐かしくも思いがけず聞こえてくるやもしれず、また、ありきたりの、スマートで機能的なだけの音楽とは一線を画する、昔ながらの力強く中身の濃いmusizielenを目の当たりにすることが出来るかもしれなかった。そしてもしそうならそんなHanns-Martin Schneidtのドイツ精神がどこまで仙台フィルを変えうるのかということにも些かの興味が湧いたのである。

コンサートに出かける条件は他にも概ね整っていた。プログラムもよかったし(Schubertの"Die Große"がメインで、その前にMozartが2曲)、ゆとりのある休日土曜日のマチネーであり(仙台フィルの定期2日目はいつもそう)、空気も大分秋めいてきていて(朝夕は寒いくらいである)、隣の森林公園を散歩がてらぶらついてから青年文化センターの椅子に落ち着いて、路地を吹く秋風のようなSchubertを聴くというのは悪い考えであるはずはなかった。そしてその結果はと言えば…見事正解だったのである。

初めは少しく心配された。登場してきたHanns-Martin Schneidtは小柄な好々爺然とした老人で、脚が悪いらしく指揮台に向かう足取りはヨタヨタとかなり頼りなくて、まるで村の寄り合いに出る前に孫の家に遊びに来たおじいちゃんという様子であった。私は勝手に真摯なる宗教音楽の大家、誠実さが厳粛さにまで達したカリスマの姿を思い描いていたのだが、そんな特別な気配は微塵もなく、寧ろ瓢然としてユーモラスですらあった。老人は指揮台に上がるのも一苦労なようで、用意された椅子に座っての指揮もどこか冴えぬ感じであったが、"魔笛"の序曲はまずはごく普通の演奏である。心密かに出だしの第1音から違っていたらこれはもう…などと期待していたものだから、ムム…このままなのか…という一抹の失望と不安が脳裏をよぎった。(この一人勝手な失望と不安は後半のSchubertでものの見事に覆されるのだが、この時は知る由もない。)

というわけで前半のMozartではコンチェルトの緩徐楽章にその尋常ならざるものの片鱗が窺われた程度で、滋味はあっても特に凄味はなく、過剰な期待は十分に満たされることなく終わってしまった。ドイツ流のバランス、遅めのテンポ、滑らかなフレージング、適度の軽やかさと愉悦、静かな幸福感などがしごく普通にあったきりで、普通以上のものの影は時折微かに掠めるだけであった。

オケにはSchneidtの意図が十全に伝わるように神奈川フィルのコンサートマスターである(金髪の)石田泰尚が連れて来られて座っていたのだが、慈しむような滋味と遅さの先にSchneidtが実現しようとしているものを描ききって、そのゆっくりしたテンポを充実した意味で満たすだけの能力と意志が、また美感と様式感が仙台フィルには備わっていないということだったのであろう。特に気になったのはホルンの非力さで、ダイナミックの幅が狭く、一本調子にただボーボーと鳴るばかり。およそ表情というものがないのには閉口した。そこにその音を置いているだけという感じで、Peter Damm並みとは言わぬが、せめて弱音のコントロールや音色の変化をもう少しなんとかして欲しいところではあった。
もっとも、編成を絞ったMozartやHaydnでそのまま弾いて魅力的なオケやアンサンブルが日本にどれだけあるのかと言えば全く心許ない話ではあろう。質感と美感と様式感について適正なスタイルを備え、指揮者にアンサンブルをゆだねられ放っておかれても見事だというオケがあれば、それこそ毎晩でも聴きに行くわけであるが。無論これは無理な話だ。
さて休憩後のSchubertである。Mozartのコンチェルトでぐっと絞り込んだ編成を一気に広げ、仙台フィルとしては(管を除けば)ほぼフルだったのではないだろうか。気合いが入っている様子である。始まると冒頭のホルンがとても強い。遠くから響いてくるかと思いきや耳元で鳴らされたかのようで、その予想外の強さに一瞬ビクッとしたほどだったが、解釈なのか、ホルンセクションの問題なのか区別がつかなかった。それが引っかかって少しの間ついていくのが遅れたのだが、ふと気がついてみるといつの間にか演奏がスルスルと目の前で巨大になっていくのである。そういう曲と言えばそうなのだが、座って指揮をする小柄なSchneidtが急に力強さを増し、何か内に窺い知れぬパワーを宿しているかのように見えてきた。これはもしかするともしかするぞと思い始めて身を乗り出したのだが、真の驚きは2楽章にやってきたのである。

あの2楽章には実に度肝を抜かれた。そろそろと心持ち軽く始まることの多い低弦の刻みが、強く踏みしめるような巨人の足取りで始まったのだが、その途端、我々の眼前にSchubertのあのLiedの世界が立ち現れたのである。あの冬の旅の若者が旅の空をズンズンと歩いていくのである。野を越え、森を越え、枯れ葉の舞う裏さびれた路地を抜けて歩いていく。

まるで彼の歩いていく情景が見えるかのようであった。枯れ野では幻の花が、森では華やかな幻の姿が親しげに誘いかけてくる。一見楽しげで、足取り確かに力強く歩いているのだが、彼の歩む道の脇にはすぐ隣り合って悉く暗い底なしの奈落がぽっかりと口を開けているのである。若者の目に映るは失われし恋人の面影、遠く離れた故郷の家、得ることの叶わぬ花嫁と家族の幻か。いつの間にか花は枯れ萎れ、慰めは遠のき、元気一杯だったはずの若者の歩みは堂 々巡りのうちに今や蹌踉 として、気がつけば自身がさすらい人、辻音楽師となり果てている。もはや彼の前にあるのは、ただ幻の太陽の薄ら明かりのうちに時もなく夢のなかのようにひろがった黒々とした冬の荒 野のみである。

かつてAdornoがSchubertの風土は死の風土であり、その風土にあっては最初の一歩も最後の一歩と等しく死の傍らにあるというようなことを言っていたのを覚えている。異様な遅さのうちに悲哀と明るさが慰めと共に平然と隣り合ったすさまじい演奏を聴きながら、そのことが思い出されてならなかった。ひたすら歩き続けられ、あちこちの地点が訪ねまわられながらも、この風土そのものはどこまでもついてまわるのである。
死の風景が日常の風景の中に(潜んでいるのではなく)当たり前に並んでいる有り様は、それが何の違和感もなく当然至極に示されるとなお一層異様で、それでいて不思議な安堵感をももたらすのは奇妙だった。

しっかりと常に強めに刻まれる低弦、さみしいのだがそれでもさみしすぎずに弾むような軽快さを失わず吹かれる木管、悲しくはあっても愁いは帯びず、決然として感傷に堕さぬヴァイオリン、時に最後の審判のように轟然ととどろく金管とティンパニー、そしてそもそも遅いのだが深遠を覗き込む部分はものすごく遅くなるテンポ。実に20分を超えたのではないだろうか。しかし遅くとももたれず、軟弱にもならず、健全な歌心で死の情緒がグロテスクなまでに描き出される様にすっかり驚かされてしまった。

につづく

2008/08/24

Horst Steinの思い出

もうすぐ今年のバイロイト音楽祭も幕を閉じるが、先月来中継放送が続いていて、音楽祭が開幕した7月25日の„Parsifal“から8月2日の
„Götterdämmerung“まで一通り今年の演目の初日の公演を楽しむことが出来た。昔はNHKのFMでチューニングを気にしながら夜中耳を凝らしたものだが、今はインターネット・ラジオになり、音もよく録音も容易くて随分と便利ではある。(バルトーク・ラジオなど320kbの配信で、CDを普通に取り込んだ時よりも音がいいくらいだ。)もちろん演奏や歌手の良し悪しはそれぞれだし、平準化したこの時代、そもそも昔に比べればということもあるにはあるが、中継放送恒例の開演5分前の3度吹かれるファンファーレが鳴って、劇場内のどよめきがざわざわと流れてくると、やはりわくわくするもので、これは変わらない。

そんな中、音楽祭開催間もない27日、かつてのバイロイトの常連、頼りになる名匠Horst Steinの訃報 が流れてきた。80歳ということだったが、ここ数年静養中ということ以外ほとんど消息を聞かず、実際は長いこと引退状態であったから、格別に驚きはしなかったのではあるけれども、ああ、とうとうかという感慨はあった。そして1度きりではあったが、直接聴いたBamberger Symphonikerとの来日公演を思い出したのである。

KochからRegerの渋い録音が何枚もリリースされ、Stein自身の70歳を記念したLiveのBrahms全集(Brahms: Die 4 Sinfonien)ども丁度出た頃で、Wandの次の「最後の巨匠」としてもてはやされる日も遠くないのではなどという声もちらほら聞かれた97年の秋のことである。この時はサントリー・ホールでのブラームス・チクルスを軸とした一連の公演だったのだが、当時私の住んでいた相模原にも足を伸ばしてやって来て、やはりブラームスの1番をやることになっていたのである。(他にはメンデルスゾーンの「静かな海と楽しい航海」とドボルザークのバイオリン協奏曲で、ソリストは諏訪内晶子であった。)相模大野のグリーン・ホールは伊勢丹に接してその隣にあり、音はデッドだが正に我が生活圏内のホールで、散歩がてら歩いても行けたので私と友人は喜んで出かけることにしたのである。(帰りの田園都市線の混雑を思うとサントリー・ホールはいつも気が重かった。)その頃既にSteinの体調があまり思わしくないことは風のうわさで耳にしてもいたが、CDも出ているし、やっても来るのだからと、その時は特に気にもしていなかった。

 さて、当日現れたSteinは意外なほどに小柄で(私はそれまで巨漢だとばかり思っていた)、例のおでここそ変わらないものの、病気のせいか以前TVで視ていた元気な頃より一回り以上も小さくなっていたことに驚かされた。元々動きが大きい方ではなかったが、意外にも弾力的で軽快だった指揮ぶりの方も、肩が丸まり体の前で肘の先だけを振る随分とこじんまりした、内省的・内向的なスタイルに変わってもいた。しかし演奏そのものは、オケともどもスケール感こそないが、その分滋味溢れる実にいい木綿や木質の手作りの味わいで、更にブラームスのフィナーレ終結部などでは本拠地での録音より一層盛り上がって地響きを立てるほどの凄まじい突進も見せてくれたのだが、演奏中否応なく気になったはStein自身の尋常ならざる顔色あった。初めに出て来た時から実にもう茹でだこのように真っ赤で、これはいったいどれほどの血圧なのであろうかと危ぶまれた。今にも卒中を起こすのではないかと見ていてひやひやしたのである

休憩中、友人と私は(あれは子供の頃いじめられたかも知れんなあーなどと軽口を利いた後)今日来て本当によかったなあとどちらともなく口に出した。あのSteinの様子を見るにつけ、これが最後か限りなく最後に近い来日であろうことは明らかだったからである。そして休憩後のブラームスは殊のほか感動的であった。冒頭の深く沈潜しながらも衝き上げて来る激情、低回し打ち沈みながらも静謐で清らかさが流れる2楽章、3楽章は昔のように素朴で弾力的な推進力があって、フィナーレはアルペンホルンの朗々とした挨拶から感動的な例の弦楽合奏を経て思いがけぬ爆演となった。

あれから早11年である。Steinの来日は翌年単身でN響を振りに来たのが最後となった。残念ながら彼のWagnerの実演には触れられなかったが、私の手元には86年のバイロイトのMeistersinger(CD-R)がある。冥福を祈る。

2008/07/13

諦めぬ人 Gary Bertini

ケルン放送のシンフォニー・オーケストラと入れたMahler6番明晰精妙な録音を聴いて以来Bertiniには関心を持っていたのだが、その実演に接したのは2回きりである。都響の音楽監督に就任して2.3年目の2000年から確か横浜と大宮で対になったMahlerチクルスが始まったのだったが、その内の横浜のみなとみらいで演奏されたチクルス最初の1番と5回目の5番を聴いたのである。かなり開きがあるが、どちらも休みの日のマチネーで、友人に誘われるまま休日気分で気楽に出かけた演奏会であった。2回共に当日券で入って席はあまりよくなかったのだが(1番の時はやや遠く、5番の時は指揮者を斜め前方から見る席であつた)、NHKホールほどではないにしてもみなとみらいのホールも実に鳴らないホールであった。その鳴らないホールで初めてBertiniの実演を観もし、聴きもしたわけであるが、「諦めね人Bertini」という強烈なイメージはこの時刻み込まれたものなのである。 そして今は亡きBertiniを想う時、特にチクルスがスタートした1番のコンサートのことがありありと思い浮かんでくる。都響は予想以上に酷かったが、小柄で精力的なマエストロには大いに感心したのだ。

当日出だしの印象は残念ながらよろしくなかった。開演時間になったのやらならないのやら、オケの連中は(在京のオケの唾棄すべきいつもの流儀で)いかにもルーチンといった様子で、だらだらぞろぞろとまとまりなく入ってくる。拍手を受けてそれに応えることもなく、各パートも揃わぬうちにてんでばらばらに座り始め、締まりなく、また何の疑いもなくこれまたてんでんにチューニングやらお喋りやらを始める。こんな入場では拍手など出来るものではない。鳴り始めた拍手は当然すぐに止んだ。いったい彼らは楽団としての舞台への登場をなんと心得ているのだろうか。

※対照的に入場が見事なのは旧東独のオケだ。Walter Wellerと来たDresdner Philharmonieなどは特に見事で今でもよく覚えている。時間になると舞台の両袖から順序よく揃って入って来る。拍手を受けながら整然と進み、全員が揃うと客席に向かって晴れ晴れと胸を張り、聴衆に敬意を表すると同時に自分たちに向けられた拍手に応えるのである。客席の拍手は自然に高まり、我々の心の中では演奏への期待も自ずと高まる。コンサート・マスターが誇らか且つにこやかに(また嬉しそうに)客席を一通り見渡した後、着席する。チューニングはその後に始まるのである。そのチューニングも馬鹿みたいにばらばらと締まりなく続けたりはしない。速やかに済ませると後は指揮者の登場を待つばかりとなって心地良い緊張感がみなぎるのである。これは後にGünther Herbigと来た時も同じで変わらなかった。そこに感じられるのは楽団としての自負と誇りだ。音楽家・芸術家としてオーケストラもソリストや指揮者と同じくその場に同様にすっくと立っているわけである。当然登場もそのようにあるべきだということなのであろう。この麗しきステージ・マナーはドレスデン・フィルに限らずStaatkapelle DresdenGewandhausorchester Leipzigも立派に心得ていた。旧西独のオケはそれに準じるが、アメリカのオケはあまり構わず、日本のオケ、特に在京のオケとなると悲しいかなこの麗しきマナーのマの字も感じられぬことが多い。しら~っと入って来て後はそのまま、指揮者が入って来るまで楽団としてまともに聴衆に向き合うことがない。これは私などには大変な心得違いに思えるのだが、どうだろうか。定期であるとかそういったことではなく、基本的な考え方の違いなのか、誇り無く、挨拶無く、実にいまいましい限りだ。

 閑話休題。というわけで、全く期待が持てぬばかりか怒りすら覚えるオケの団員の(いつもの)入場ぶりを見ながら、鳴らないホール鳴らないオケが、湿度の高い鳴らない季節に、いくら編成は大きくてもR. StraussのようではないMahlerをやるわけであるから、これは相当きつかろうなあ…と思っていると、案の定であった。

いざ始まってもそもそも音としてあまりに貧弱で、感覚にも感情にも、頭にも魂にも訴えかけるものをまるで持ち合わせぬ有り様、弦は鳴らず木管は鳴らず、金管と打楽器が鳴るばかりという具合であった。いつ温まるかと待ったが、楽章が進んでも事態はほとんど変わらず、これでは解釈味わいもあったものではない。疲れを知らぬ棒捌きで指揮をとり続けるBertiniもこれでは大変だと隣の友人と顔を見合わせたのものである。

ところがである、普通ならもう半分諦めて、鳴らぬなら鳴らぬままでそこそこそつなく終わらせて、それでおしまいとでもしてしまいそうなところを、何とBertiniは諦めるどころかますますエネルギッシュに振り続けるのである。それも叱咤激励するとか檄を飛ばすという風ではなく、オケが絶望的に鳴らぬことなどまるで知りもしないように平然と、あたかもとてつもなく素晴らしい演奏が繰り広げられているかのようにますます精力的に振りに振るのである。

すると何としたことか、Bertiniの熱とエネルギーに煽られて、こと終楽章に至って遂にオケも熱く鳴るようになってきたのである。 我々は驚いてまた顔を見合わせた。この時Bertiniはいかにも動きやすそうな黒い詰め襟風の上っぱりのようにも見える上着を着ていたのだが、見ているとこの70歳を越えた小柄な熱血漢はフィナーレになって文字通り何度も勢い良く飛び上がったものだ。同じ飛び上がると言ってもBernsteinとはまるで違い、動きは機敏で切れがあり、着地も着地後の動作も至極見事で、まるで旧ソ連のオリンピック体操選手のようであった。何回かの目の覚めるようなジャンプと着地があり、そうしてとうとうフィナーレは見事「熱演」と言っていいものとなったのである。客席からブラボーが飛び交ったのは無論である。私と友人も勿論盛んに拍手をした。

我々は感服、感嘆していた。我々の今目の前にいるのは単なる老巨匠・名匠ではない。百戦錬磨の戦闘指揮官でありバイタリティの塊であった。あれほど救いようもなく鳴らなかったオケを発奮させ、ホールにもMahlerにもBertiniにもまだ十分慣れておらぬために、せっかくのチクルスのスタートがつまらぬ凡演に陥りかけようとしていた絶望的な流れを不屈の意志と力業で押し戻し、遂に見事な手綱さばきで曲がりなりにも聴衆受けする熱演にまで持っていったのである。実に尋常ならざるパワーであった。

この「熱演」は、しかし無論「名演」というのでは全然なかった。内容の凄絶さであるとか意味の深いえぐりであるとか飛翔するイマジネーションであるとか全人的な音楽体験であるとか、オケの理解や力量無しには実現し得ない領域には一歩も踏み込んではいなかったのだが、そんなことはBertini自身が誰よりもよく知っているようであった。拍手喝采に応えるBertiniは、汗を拭くタオルを肩に掛けピョンと指揮台に飛び乗って、表彰式のメダリストが観衆に応えて手を振るように大きく手を振って聴衆の歓呼に応えていたのである。その様子は難度の高い技を決め予定通り高得点をもぎ取った体操選手の爽快さを想わせた。指揮台の手すりに左手でつかまり、半ば伸びあがりさえしながら、高々と挙げた右手を腕ごと大きく振る、白いタオルを肩に掛けた笑顔のBertiniは、どう見ても芸術的成果を実感して喜ぶ内省の芸術家ではなく、厳しい状況下での困難と思われた仕事を力強い采配と不屈のプロ魂で見事にし遂げた現場監督・戦闘指揮官であった。Bertiniに別な面がないはずもないが、その時我々目の前にいて歓声に応えていたのは、必ずあるレベル以上の成功を確実に請け負う仕事人本物のプロフェッショナルであった。

そう思った時、私は確信した。ケルンの放送オケのシェフに就任した時「十年の内にこのオケをベルリン・フィルを追い越すまでにしてみせる」と言ったBertiniがここにいると。


「いやあ、人間、簡単に諦めてはならんなあ」と言いながら友人と私はホールを後にし、そのままビア・ホールに立ち寄った。

「いやあ、それにしても、人間、やっぱり簡単に諦めてはならんなあ」と言いながら我々は「諦めね人Bertini」乾杯したわけであった。

2008/07/09

透徹とは何か?: WandとNDR Sinfonieorchester


ヨーロッパ音楽芸術の現代における一つの到達点を見せてくれたものとして最も強く印象に残っているのは、何と言っても2000年の11月に来たGünter WandNDR Sinfonieorchesterであった。Schubertの8番Brucknerの9番という芸術的には完成された未完成を2曲合わせた此岸から彼岸を目指す円環のようなプログラムで、この時はWand自身HamburgやMünchenでも集中的に取り上げて満を持しての来日公演だったが、高齢のWandが長時間のフライトに耐えて本当に来られるのかどうかは直前まで危ぶまれてもいた。(許光俊など一部の音楽評論家は世界の至宝の命を削らせてはならないと来日反対の要請をしたとも聞いた。)そんな心配はあったものの、共に加減を知らぬコンビである友人と私は3日ある公演の全てを予約し、結局のところ(適当な理由を付けて仕事も休み)初台まで3日間通って、なかなか得られぬ(最早不可能であるかもしれぬ)音楽体験を持つことが出来たのである。

Wandを待つ会場の雰囲気も特別だったが、その演奏も単なる巨匠の名演奏というのとは次元が異なる一つの究極的なものであった。楽団長に付き添われた登場の際の足取りこそ少々危うげだったが、指揮台に立ったWandは眼光の鋭い鶴のようで、吸い込まれるようなホールの真空状態から未完成の第1音が立ち現れ、流れ出した瞬間、今これから聴こうとしている演奏がとてつもないものであるということが否応もなく了解されたのである。「透徹」というものが世にあるとすればこれこそがそれであった。軽すぎも重すぎもせず、一点の曇りも濁りもなく、適正としか言いようのないバランスで力みなく奏された低弦は、純度の高い水がすーっとどこまでもしみとおってくる様であった。研ぎ澄まされていながら神経質にならず、完全にコントロールされていながら人為性の気配が微塵もない。一言で言えば既にして「彼岸」に通ずる音が奏でられていたのである。見ているとWandの普通ならとても見えないような文字通り小指1本のごく小さな動きにもオーケストラは正確に反応していた。(我々は3日ともほとんど同じような1階やや左寄りの11列とか17列とかに座っていた。)Wandが当然行ったであろう厳しい練習を経て、両者の間には感覚と呼吸の共感とでもいうものが起きていると思われた。徹底的に突き詰められた結果、そこにはEugen Herrigelの見た弓道の名人にも通ずる名人・達人の技が生じているようでもあった。


終演後、我々はみな自ずから立ち上がって拍手を送った。後日、CDを買ったらブックレットには客席の様子もあり、私と友人も写っていた。画像の左1/4やや上方に男二人並んで感動の面持ちで放心しているのが我々である。思いがけぬ記念になったなぁと後で話したものである。

2008/07/05

バーニャのパンの店主の一言で考えさせられたこと

今年は入梅も遅く、しかも空梅雨のようでもあり、梅雨らしい雨を経験しないまま真夏を迎えそうな気配である。そんな中ふと一昨年の雨の日の出来事を思い出した。雨の中思い立って、こともあろうか傘を差して自転車バーニャのパンを買いに行ったのだが、店主とのやり取りが少々面白かったので記憶に残っているのである。

一昨年はなかなか明けぬ梅雨で(梅雨明けは8月になった)、その日も激しいというわけではなかったが、それでも腿やら腕やら背中やら(特に腿がひどい)物好きな自転車乗りが濡れるには十分な降りであった。店の横の駐車スペース(置いて3台分だろう)には花が植えられていて普段から庭のようなのであるが、その日は朝からのたっぷりすぎる雨で緑は熱帯雨林的な怪しさを発していた。



さて、その隅に自転車を駐めて、(バサバサと)傘の雫を振り落とし(ブルブルと犬のように)体の雫を掃って、哀れな濡れ鼠の体で店に入ると、昼近くではあったがさすがに客は一人もおらず、奥ではあの店主がパンを焼いている最中だった。

焼きあがったパンのにおいの中、私は豊かな気分で一人ゆっくりとパンを選び(普段食べるライ麦パンはこの間買ったばかりだったから、この日はバーニャお得意のやけに重量感のあるイチジクのパンと後2つばかり小さいのを選んで)「よく降りますね」と差し出した。その時の店主の答えが予想外のものであったのである。

「よく降りますね。」

「すばらしい。」

「ん?」

「すばらしい雨です。」

 


言われてみれば静かな店内から見る外の雨はタルコフスキー的とも言えた。濡れ鼠の客を特にからかう風もなく、おそらくは朝早くから生地をこねたりパンを焼いたりして奥の工房から店のガラス戸の向こうに降る雨を見ていたであろう店主は、そのよく降る雨を、降り込められて静かなその店内でどうやら楽しんでいたらしいのである。蕎麦打ち職人がその違いを言うようにパン職人にとっても雨の日は生地の作りようからパンの焼きようまで当然変わってくることであろう。確かに雨ならばその雨をあるがままに受け容れなければその日のパンは焼けまい。そのことが店主にそう言わせたものと思われたのだが、どうもそれだけではなかった。

小さな店で、自分の信じる好きなパンしか焼かないと思われる店主は「よく降りますね。」「いや、全く。こんなに降るといやになりますね。」とか「早く梅雨が明けて欲しいものですね。」といったお定まりの会話を私の前で見事に断ち切ってみせたのであった。暗黙のうちに自動的に決められた科白を何の考えもなく惰性でなぞってみせることは「会話」ではない。そのベルトコンベア式の自動装置を止められて私は確かにはっとしたのである。

店主(ニヤリとして) 「すばらしい雨です。」

私(ハッとして) 「なるほど。いや、どうせ降るならこれぐらい降ったほうがね。」

店主(いつも通り) 「では、お気をつけて。」

私(ハッとしたまま) 「どうもありがとう。それじゃあ。」

「その思想が行動になるのでなければ『思想』の名に値しない」とは学生時代よく恩師(中年になるまでMünchenにいて、スコラ哲学とユング心理学を研究していた。帰国後も毎年紀要論文を最低1つ書くことを自分に課していた)が口にしていた言葉である。当時私はそれを当然だと思い、我が思想と行動の一致(実はただの気ままな趣味)を暢気に威張っていたのだが、それは実に愚かな楽観であった。実際今になってみれば当時懸命に学んだつもりで我が「思想」と信じ、そう称していたもののいくらも我が「行動」になっていないことが分かるのである。(実際の生活の中では、その指針にすらなっていないかもしれない。"アレテイヤ"も"IronieとHumor"も"Trotzdemの精神"も普段の生活者としての私に対してほとんど無力である。)。逆に言えば、幼少時からほとんど意識することなく習慣的に身に付けてきた行動や思考や感情のパターン、無反省の振る舞いや反応に過ぎないものが我が「思想」の正体というわけであった。(つまりそれは思想ではなかった。私はついに思想を学ばなかった。)

戦前仙台で教えたKarl Löwith が日本人の精神生活を評して、日本人は二階家に住んでいるようなもので、二階は西洋でも一階は完全に日本のままで変わらない(つまりいくら学んでも思想が行動にならない)ことを指摘した。これは「和魂洋才」というような立派なものではなさそうだ。「世間」や「つきあい」や「日々の暮らし」の前に思想があっけなく敗れているさまである。そしてどうやらそれはそのまま私のさま(「ざま」と言った方がよいか)なのである。これは嘆かわしい。

それで結局哀れなばか者のままで、以前と比べてまるで賢くはなっておらぬとFaustのように嘆いてみることでもできればまだしもだが、FaustどころかWagnerほども勉強していない自分を振り返ると正直なところ格好のつけようもない。パン屋の店主の一言から我が思想の敗北が浮かび上がってしまったのである。