2008/11/30

創に言葉ありき:InbalのMahler

レシピや調理は教えられても、こと肉を焼くのに関しては天分だと誰か言ってやしなかったろうか。(どこかでそんなふうなことを読んだ覚えがあるのだが。)
修練して習い覚えれば、それでも人並み以上に上手に焼けるには違いない。しかし、時々の素材や条件に応じて、正にその時、その場で、その素材を真に見事に焼き上げるには更に加えて天分が必要で、厳密に言えばそれは教えることができないということなのだろう。

同じようなことはオーケストラの演奏芸術についても言えないだろうか。オーケストラを指揮して音楽を奏でることのどの部分が肉を焼くことに相当するのか、それについては異論もあろうが、私にはテンポやリズム感、歌い回しの感覚もさることながら、特に響きのバランスに対するセンスというのがそれに当たると思われる。ピアノでもヴァイオリンでも奏者によって楽器の音色やハーモニーの感触が違うように、指揮者によってオーケストラの音色や響きのバランスが大きく異なってくるのは確かなことだ。澄んでいたり、粘っていたり、開放的で明るかったり、緻密で重厚だったり、品格があったり、なかったり、たたずまいとでも言おうか、普通に出てくる音のたたずまいがそもそも異なるのだ。
リズム、メロディー、ハーモニーの三要素の中で前二者は意図的な操作が比較的容易なものであろう。その点、ハーモニーや音色、響きには意識的な操作を越えた、自ずからなる指揮者の個性の刻印が押されているように思える。我々がコンサートやレコードで、ある時代の、ある作曲家の、ある曲を聴く場合、奏でられる音楽のバランスには(最近の古楽流のバランスなど)時代の趣味や様式という大前提によるところも大いにあろうけれど、その上でなお実際の精妙なるバランスを(意識的・無意識的に)コントロールしているのは指揮者の見識であると同時に天分であろう。Bayreuthの奈落に対する適性という話もよく耳にするし、修業や経験、探究や見識の他に指揮者自身の身に備わっている天賦のもの(そして、それに根ざしているに違いない趣味やこだわり)こそ実際に演奏会場に響くオーケストラバランスを作り出しているのではないか。

さて、こんなことを思ったのも先日聴いていたラジオでたまたまEliahu Inbalの名前を耳にして、ふと8年前の印象深い演奏会のことを思い出したからである。

それはNHK開局75周年の秋、2000年の10月24日のことで、久しぶりにInbalが元の手兵のFrankfultの放送オーケストラを率いて来て、お得意のMahler5番(Mahler: 5. Sinfonie  Radio-Sinfonie-Orchester Frankfurt)を振るというのでNHKホールに聴きに行った時のことである。そして、この時のMahlerが実にInbalならではの、(もしかするとあの頃のInbalでしかあり得なかったかもしれない)まさに独特で誰とも比較しようのないものだったというわけである。

(なりばかり大きくて気に喰わない)NHKホールには当然いつもの友人と出かけた。いつも通り早めに着いた我々はまい泉のカツサンドを食べ(こちらは気に入っている)腹ごしらえをして、それではいざと聴いたわけだったのだが、この時初めてInbalのMahlerをまともに聴くこととなった友人は、聴きながら大いに戸惑い且つ驚いて、以来自身のMahler観の変更を余儀なくされたのであった。

その時のInbalのMahlerはどんなものであったろう。友人が聴き馴染んでいたのは(スタイルこそ違え)KarajanやBernsteinのMahlerで、楽器がよく鳴らされて、たっぷりした響きがよくブレンドされ、どこかが突出したり薄くなったりすることなどまずあり得ないウェルバランスであったから、Inbalの各楽器やセクションがポンポンと露わに突出してくる、骨組みもあからさまなMahlerにすっかりびっくりしてしまったのである。(その時の演奏を評して鈴木淳史は「変態的演奏」と驚き呆れ〔賞賛し〕ていたのを後で知ったが)あのマニエリスム的とも表現主義的とも好き放題とも言える演奏は確かにノーマルで常識的な演奏では全くなかった。録音をはるかに上回る、一言で言えば「そこまでやるか」という面白い演奏で、フィナーレなどあまりの極端さに"ヒヒヒヒヒヒヒヒ"と何度も笑わせられたのだった。

こう書いてヒッチャカメッチャカ、滅茶苦茶な演奏を思い浮かべられると困るので言っておけば、部分部分は実に克明に整然と破綻なく、見事に統一されて全く見事だったのである。フレーズの一つ一つに至るまで弦も管も打楽器も、ソロ、合奏、各パート、各セクションともみな細部まですっかり揃っているのだが、揃ってべらぼうなことをしているのである。音は当然、Inbalのあの濁りのない、鋭く透明な、それでいて情念の粘りと重みを帯びた、薄いようで厚い例の音で、それでもってそのフレーズ、そのブロック、その楽章と全て曖昧なことなくきちんと揃えて、整然克明に極端なことをするものだから、
I. 明瞭明晰克明な葬送

II. 明瞭明晰克明な阿鼻叫喚

III. 明瞭明晰克明な奇想

IV. 明瞭明晰克明な白日夢

V. 明瞭明晰克明な大騒ぎと大団円













といったクラクラするようなへんてこ極まりない世界が現出したのである。

そしてその時、最も強い印象を与えられたのが、(これが実に不思議だったのだが)明晰克明に奏される各フレーズの一節一節がメロディーと言うよりもむしろ、まるで言葉の一言一句文字の一字一句であるかのように聞こえたことなのである。ソロもセクションも全体も、明晰な言葉で、普通ならば表現することの難しい玄妙なる情念を当たり前のように、しかも克明に語り、記述していくという感じなのである。更に言えば、明瞭明晰な言葉がその場で克明に語られ、記されることで、それによって同時にその世界が生成し、今目の前で形造られていくという感じなのであった。実に言葉のように語られ、記されることで初めて諸々の存在者が立ち現れ出でくる音楽の世界、こんなMahlerはInbalでしか有り得まい。


普通演奏を聴いていると、当然作曲家が書いて出来上がっている作品が先に在って、後からそのイメージを追い求め、なぞることで演奏が完成するという感じがするのだが、Inbalの演奏を聴いているとそれが逆に、書かれた作品はまだ存在しておらず、奏者が言葉として語り、記していくそばで初めて出来上がっていって、全てが語り、記述された後になって作品が完成するのではないかという奇妙に逆転した印象をもたらされたのである。

響きにまつわる暗さも、また印象的だった。透明な音で明瞭明晰なのだが、全く明るくない、つまり何ともほの暗いのである。濁りがなく澄んでいるのに軽やかでも乾いてもおらず、反対に地下洞窟の泉の水のように静かに暗く重いのである。あれほど克明明晰であるのに、Inbalの場合、Mahlerの音符を照射する明かりは物の隅々まで照らし出す地中海的・ギリシャ的太陽光ではない。やはりそれはあの7つに枝分かれしたユダヤの燭台の蝋燭の光なのではあるまいか。トーラーやタルムードの律法を燭台の明かりで一字一句克明に読んでいくうちに、或いは記していくうちに、ついに言葉そのものが意思を持ったもののように自ら自分自身を語り出す。暗い世界で言葉が自在に飛び交っている。

演奏はいつも通りInbalらしい熱狂的なフィナーレを迎えて、客席は大いに沸いたのだが、終演後の印象はむしろサラッとして後を引かず、全くもたれなかった。これも、思えば不思議なことである。没入と熱狂がありながら明瞭明晰克明で、透明な響きで骨組みが見通しよく(よすぎるくらい)あからさまに曝されながら暗く重い情念が激しく渦を巻き、暗く粘っているのにすっきりとしてもたれず、精妙静謐であるかと思えば疾走し大爆発する。そしてそんな部分部分が全て音楽であると同時に語られた言葉であるかのように聞こえるのである。普通なら相反する要素が同居するこの特殊な演奏をモダンと言うのか、ポスト・モダンと言うのか、或いはユダヤ神秘主義と言うのか、はたまたその融合と言うべきか知らぬが、その時我々はInbalならではとしか言いようのない演奏を聴いたわけである。

コンサート後、少し歩いて頭を冷やした後、入ったドイツ料理屋でいつものようにビールをグビグビ傾けながら友人と私はあれこれ印象を話し合った。私は飛び交う言葉について話し、友人はまだ混乱していた。都響の主席に就任した (随分と太った)Inbalは今どんな演奏をしているのだろう。もしまだあの時のような演奏を(或いは更にそれを上回る演奏を)しているなら是非聴いてみたいものだ。

"Am Anfang war das Wort, und das Wort war bei Gott, und Gott war das Wort.Dasselbe war im Anfang bei Gott. Alle Dinge sind durch dasselbe gemacht, und ohne dasselbe ist nichts gemacht, was gemacht ist. In ihm war das Leben, und das Leben war das Licht der Menschen. Und das Licht scheint in der Finsternis, und die Finsternis hat's nicht begriffen"       (Joh.1,1)

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