
"懐かしの"と言ってもBachのLPを2枚持っているきりでRichterのように何でもかんでも聴いて親しんでいたわけではないから、名前は懐かしくてもその音楽は初めてのようなもので、実のところは神奈川フィルとの演奏会など最近の評判を耳にして行ってみる気になったのである。もしかするとかつてLPで聴いた古き良きドイツの響きが懐かしくも思いがけず聞こえてくるやもしれず、また、ありきたりの、スマートで機能的なだけの音楽とは一線を画する、昔ながらの力強く中身の濃いmusizielenを目の当たりにすることが出来るかもしれなかった。そしてもしそうなら
コンサートに出かける条件は他にも概ね整っていた。プログラムもよかったし(Schubertの"Die Große"がメインで、その前にMozartが2曲)、ゆとりのある休日土曜日のマチネーであり(仙台フィルの定期2日目はいつもそう)、空気も大分秋めいてきていて(朝夕は寒いくらいである)、隣の森林公園を散歩がてらぶらついてから青年文化センターの椅子に落ち着いて、路地を吹く秋風のようなSchubertを聴くというのは悪い考えであるはずはなかった。そしてその結果はと言えば…見事正解だったのである。

というわけで前半のMozartではコンチェルトの緩徐楽章にその尋常ならざるものの片鱗が窺われた程度で、滋味はあっても特に凄味はなく、過剰な期待は十分に満たされることなく終わってしまった。ドイツ流のバランス、遅めのテンポ、滑らかなフレージング、適度の軽やかさと愉悦、静かな幸福感などがしごく普通にあったきりで、普通以上のものの影は時折微かに掠めるだけであった。
オケにはSchneidtの意図が十全に伝わるように神奈川フィルのコンサートマスターである(金髪の)石田泰尚が連れて来られて座っていたのだが、慈しむような滋味と遅さの先にSchneidtが実現しようとしているものを描ききって、そのゆっくりしたテンポを充実した意味で満たすだけの能力と意志が、また美感と様式感が仙台フィルには備わっていないということだったのであろう。特に気になったのはホルンの非力さで、ダイナミックの幅が狭く、一本調子にただボーボーと鳴るばかり。およそ表情というものがないのには閉口した。そこにその音を置いているだけという感じで、Peter Damm並みとは言わぬが、せめて弱音のコントロールや音色の変化をもう少しなんとかして欲しいところではあった。
もっとも、編成を絞ったMozartやHaydnでそのまま弾いて魅力的なオケやアンサンブルが日本にどれだけあるのかと言えば全く心許ない話ではあろう。質感と美感と様式感について適正なスタイルを備え、指揮者にアンサンブルをゆだねられ放っておかれても見事だというオケがあれば、それこそ毎晩でも聴きに行くわけであるが。無論これは無理な話だ。さて休憩後のSchubertである。Mozartのコンチェルトでぐっと絞り込んだ編成を一気に広げ、仙台フィルとしては(管を除けば)ほぼフルだったのではないだろうか。気合いが入っている様子である。始まると冒頭のホルンがとても強い。遠くから響いてくるかと思いきや耳元で鳴らされたかのようで、その予想外の強さに一瞬ビクッとしたほどだったが、解釈なのか、ホルンセクションの問題なのか区別がつかなかった。それが引っかかって少しの間ついていくのが遅れたのだが、ふと気がついてみるといつの間にか演奏がスルスルと目の前で巨大になっていくのである。そういう曲と言えばそうなのだが、座って指揮をする小柄なSchneidtが急に力強さを増し、何か内に窺い知れぬパワーを宿しているかのように見えてきた。これはもしかするともしかするぞと思い始めて身を乗り出したのだが、真の驚きは2楽章にやってきたのである。


死の風景が日常の風景の中に(潜んでいるのではなく)当たり前に並んでいる有り様は、それが何の違和感もなく当然至極に示されるとなお一層異様で、それでいて不思議な安堵感をももたらすのは奇妙だった。
しっかりと常に強めに刻まれる低弦、さみしいのだがそれでもさみしすぎずに弾むような軽快さを失わず吹かれる木管、悲しくはあっても愁いは帯びず、決然として感傷に堕さぬヴァイオリン、時に最後の審判のように轟然ととどろく金管とティンパニー、そしてそもそも遅いのだが深遠を覗き込む部分はものすごく遅くなるテンポ。実に20分を超えたのではないだろうか。しかし遅くとももたれず、軟弱にもならず、健全な歌心で死の情緒がグロテスクなまでに描き出される様にすっかり驚かされてしまった。
2につづく
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