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(変わっていたのは店の正面だけで、匂いも店内も
ぜんぜん変わっていなかった。)
あれほどの匂いはどこにもない。店で匂うばかりではない。たった1個のカンパーニュを家にもって帰って袋から取り出す。すると部屋中に匂いが満ち溢れるのである。取り出したパンを左手でささえて、右手で切る。するとパンを持った手も、ナイフを持った手も窯くささに煙るかのようである。我々はバーニャのパンを食べる時、ただパンを食べているのではない。無比の匂いも食べているのだ。これこそこの店の紋所である。
朝一番に行ったので狭い店内にいるのは私だけで、
無論一歩入った一段上のレジスター前にはパワフルなお母さんがいたし焼き上がって強烈な存在感を主張するパンたちにゴロゴロと囲まれて、実に贅沢な時間と空間を独り占めすることができた。
(帰りには「どうもでしたー」と声をかけてくれるし、時々一切れ切ってくれる)
まだ分けられていない大きなパン生地ののった奥の作業台には若いが目力のある頼もしい店主と
(以前、用事で仙北の田舎の方に行くことを話したら、宮城の米どころのうまい米に負けない、きちんとした主食になりうるパンを焼きたいと言っていた)
共に作業中の同年輩の職人が2人いたが
(初めて見た)
それにしても、このバーニャのパンどもの存在感と個性はどうだろうとつくづく思う。並大抵のものではない。久しく遠ざかっていた私は、しばらくぶりに直接それらを目の当たりにして、その一個一個から強力に放射されてくるパワーに改めて感嘆の念を禁じえなかった。
棚の前に立つ私に、それぞれのパンが自己の存在を強力にアピールしてくるのである。
「さあ、俺を是非食べてみてくれ。俺は滅法うまいぞ。」とか
「選ぶなら、このあたしを選んでちょうだい。よそのだれともぜんぜん違うんだから。」とか
「おい、滋養のあるいいものを食えよ。例えばこの俺様をな。」とか
ジッと見ていると一個一個のパンから、そんな声が聞こえてくるかのような錯覚に襲われるほどなのだ。
(私はこの印象が決して大げさだとは思わない。朝、独りきりで、焼き上がって所狭しと並ぶバーニャのあのパンたちと直接対面してみれば分かるはずだ。一個一個のパンの顔が見え、声が聞こえてくる気がするに違いない。何をバカなと思われる方は機会を見つけて是非試してみられよ。)
雄弁な個体あり、朴訥、寡黙な個体あり、ざっくばらんで朗らかな個体もあれば考え深く気難しげな個体もある。その有り様は実に面白い見もので、その強烈な個性の陳列はしばし見飽きることがないが、そのどれにも共通しているのは、見事なほどに気取りのない逞しさである。ハード系のパンたちは言わずもがな、ソフト系のパンたち、ペストリー、タルト類に至るまで、みな健康で逞しく、力強く骨太だ。農耕馬のように頑健そのもの、実質に満ち、およそ繊細ぶったり、上品ぶったり、気取ったりといった無駄なポーズがない。(逞しい働き者に素顔美人、言ってみれば風大左エ門に菊ちゃん、花ちゃんといったところか。)


バーニャのパンどもは世の中が過度に複雑化する以前の力強い大地に根を持っている。黄金色に実った麦、ふりそそぐ陽光、大地をしめらせる雨に人の世の俗な思惑はない。
s.バーニャのパン "pan bagnat" (2008/05/28)
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