2010/09/20

オペラ『鳴砂』と仙台オクトーバーフェスト

先日もらった招待券でオペラ協会の公演を聴いたその脚で錦町公園で開かれているオクトーバーフェストに来てビールを飲んでいる。本家のOktoberfest御用達のBrauereiの一つ、Hofbräuhausのビールが飲めると聞いてやって来たのだ。今飲んでいるのはMünchner Weisseのレギュラーである。ソーセージも合わせて白いMünchner Weßwurstにした。ステージではドイツから来た6人組のバンドが愉快な曲を演奏している。先刻まで県民会館で聴いていた『鳴砂』とはまるで違う世界である。テント内で人々は騒々しく語り、何度も乾杯し(Prost!)、ジョッキを傾け、愉快な曲に体を揺すっている。ビール自体はなかなかうまいが、私自身は久しぶりのビールで早々に顔が赤くなってしまって情けない限りだ。

さて、というわけで、肝心の『鳴砂』はどうだったろう。それは当初予想していた逆オランダ人では全くなかった。嵐や海や難破船、原作者の言から窺われたスペクタキュラーな物への志向などから私は秘かに音の逆巻くヴァーグナー風を勝手に夢想していたのだが、実際はそんなことがあるはずもなく、音楽も脚本もまるで趣の異なるものであった。開演30分前の作曲家と指揮者のプレトークを聞いて少々期待しないでもなかったのだが、音楽そのものはヤナーチェクと青髭のバルトークの折衷、第2幕の後半はラジオドラマ風という感じであったろうか。「ルルルルルー」と言葉なしで歌われた主役二人の愛の二重唱は("夜明けのスキャット"を想像しなかったと言えば嘘になる)どうも安っぽく聞こえてしまった。

重唱や合唱はまずまず聴けたのだが、残念なことにレシタティーボに当たる語り部分には大いに興をそがれた。単調な母音ばかりが響く単純な日本語のセリフには、どんな作曲家であっても頭を悩ますところではあろうが、ああ一律に処理されると無機的、没個性的に響く。いきおい言葉の情報量とニュアンスに乏しくなって、誰の台詞であろうと何もかもがみな同じように聞こえてしまうのである。これでは必要な劇性が高まるはずはなく、ドラマに在るべき「正」「反」の緊張も、「合」の解放も立ち現れては来ない。あれを統一性と言うべきか。私には単調さと聞こえた。

脚本と演出のせいもあろうか、作品全体の説得力には疑問を覚えるほかなかった。悲劇には違いないのだが、いったい何の悲劇なのかよく分からないのだ。イサゴの悲劇なのか、ミナジの悲劇なのか、鳴砂の浜の悲劇なのか。おそらく浜全体の悲劇なのであろう。原作者にも作曲家にも人間の愚かさをダイナミックに描き出そうという壮大な意図があったと思われるのだが、なにぶんにも焦点が定まりきらぬ感じなのである。鳴浜のモチーフが弱くて印象に残らないのがそもそも問題だと思うが、肝心の鳴砂の浜の神聖さの根拠がどうにも希薄なのである。そのためにタブーを犯したのやら犯さないのやら、だいたい何が冒すべからざる禁忌だったのか伝わってこない。取り返しのつかなさ、運命の不可逆性が迫ってこないのだ。悲劇の必然性が感じられぬところにカタルシスは生まれぬだろう。

地元にオペラがあるというのは、これはこれで誇るべきことだろう。演出次第でもう少し説得力も持ち得るだろう。だが、正直なところ作品の完成度という点で言えば、この目の前のビールに敵うものではないようだ。

ビール万歳!

簡単に傑作は創まれぬということか。
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