2010/09/25

秋となる

ようやく秋めいてきた思っていたら、夕べは寒くて目を覚ました。これまでのように毛布一枚では足りなかったのである。金曜日には、そういう種類なのであろうか、ずいぶん早いと思うのだが、既に色づいて紅く染まった葉を歩道に落としている街路の植込みもあった。よく見掛ける種だが名前は知らない。いよいよ実質的な秋になったということか。

秋分を越して、何れにせよコーヒーの旨い季節となったのは良い。そしてそれはコーヒーの友についてもまた同様である。

先日来、人が来るというのでバーニャまで買いに行ったチーズケーキのついでに、つい一緒に買い求めたアップルパイ(ガレット・ポムだったか)が妙に口に合うものだから、昨日もつい立ち寄ってしまった。薄くスライスした林檎が、層を作らぬタイプのパイ生地の上一面に並べられそのまま焼かれただけの素朴なやつで、直径およそ15センチ、510円という手頃さも魅力の定番の一つである。同じようなものでタルトになっている少し立派なやつもあるが、そちらではない。昔から私は、あのバターをたっぷり含んだホームメイドタイプのシットリしたようなポキボキしたような重めのパイ生地が好きで、特に一日おいてバター分が全体に染み込んでねっとりと馴染んだ、少し透明感の出た頃合いを愛好しているからである。お気に入りの生地に加え、旬を迎えつつあるリンゴをそのままに味わうことができるという点で今時分のコーヒータイムにはぴったりと馴染む。変にいじらぬ飾り気のないストレートさが貴重である。

昔から春と秋どちらが勝るかという議論がある。コーヒーの旨さでは秋に軍配が上がる。


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2010/09/20

オペラ『鳴砂』と仙台オクトーバーフェスト

先日もらった招待券でオペラ協会の公演を聴いたその脚で錦町公園で開かれているオクトーバーフェストに来てビールを飲んでいる。本家のOktoberfest御用達のBrauereiの一つ、Hofbräuhausのビールが飲めると聞いてやって来たのだ。今飲んでいるのはMünchner Weisseのレギュラーである。ソーセージも合わせて白いMünchner Weßwurstにした。ステージではドイツから来た6人組のバンドが愉快な曲を演奏している。先刻まで県民会館で聴いていた『鳴砂』とはまるで違う世界である。テント内で人々は騒々しく語り、何度も乾杯し(Prost!)、ジョッキを傾け、愉快な曲に体を揺すっている。ビール自体はなかなかうまいが、私自身は久しぶりのビールで早々に顔が赤くなってしまって情けない限りだ。

さて、というわけで、肝心の『鳴砂』はどうだったろう。それは当初予想していた逆オランダ人では全くなかった。嵐や海や難破船、原作者の言から窺われたスペクタキュラーな物への志向などから私は秘かに音の逆巻くヴァーグナー風を勝手に夢想していたのだが、実際はそんなことがあるはずもなく、音楽も脚本もまるで趣の異なるものであった。開演30分前の作曲家と指揮者のプレトークを聞いて少々期待しないでもなかったのだが、音楽そのものはヤナーチェクと青髭のバルトークの折衷、第2幕の後半はラジオドラマ風という感じであったろうか。「ルルルルルー」と言葉なしで歌われた主役二人の愛の二重唱は("夜明けのスキャット"を想像しなかったと言えば嘘になる)どうも安っぽく聞こえてしまった。

重唱や合唱はまずまず聴けたのだが、残念なことにレシタティーボに当たる語り部分には大いに興をそがれた。単調な母音ばかりが響く単純な日本語のセリフには、どんな作曲家であっても頭を悩ますところではあろうが、ああ一律に処理されると無機的、没個性的に響く。いきおい言葉の情報量とニュアンスに乏しくなって、誰の台詞であろうと何もかもがみな同じように聞こえてしまうのである。これでは必要な劇性が高まるはずはなく、ドラマに在るべき「正」「反」の緊張も、「合」の解放も立ち現れては来ない。あれを統一性と言うべきか。私には単調さと聞こえた。

脚本と演出のせいもあろうか、作品全体の説得力には疑問を覚えるほかなかった。悲劇には違いないのだが、いったい何の悲劇なのかよく分からないのだ。イサゴの悲劇なのか、ミナジの悲劇なのか、鳴砂の浜の悲劇なのか。おそらく浜全体の悲劇なのであろう。原作者にも作曲家にも人間の愚かさをダイナミックに描き出そうという壮大な意図があったと思われるのだが、なにぶんにも焦点が定まりきらぬ感じなのである。鳴浜のモチーフが弱くて印象に残らないのがそもそも問題だと思うが、肝心の鳴砂の浜の神聖さの根拠がどうにも希薄なのである。そのためにタブーを犯したのやら犯さないのやら、だいたい何が冒すべからざる禁忌だったのか伝わってこない。取り返しのつかなさ、運命の不可逆性が迫ってこないのだ。悲劇の必然性が感じられぬところにカタルシスは生まれぬだろう。

地元にオペラがあるというのは、これはこれで誇るべきことだろう。演出次第でもう少し説得力も持ち得るだろう。だが、正直なところ作品の完成度という点で言えば、この目の前のビールに敵うものではないようだ。

ビール万歳!

簡単に傑作は創まれぬということか。
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2010/09/10

芸術(?)の秋近し


今年の夏は酷暑だったが、ここのところようやく秋らしい風も感じられる朝夕が増えてきた。日が高く上ってしまえば、まだ相変わらず暑いが、朝自転車で坂を下る時は寒いこともあり、有り難いことに夜の寝苦しさもなくなった。無論、こうでなければならない。


気候的にはまだ学問、芸術の秋と言うには少し早いが、今年もオペラ協会から招待券をもらえることになった。創作オペラ『鳴砂』で、19、20と2日ある公演の内の2日目、14時からのマチネーである。敬老の日で彼岸の入りになるが、墓参りは午前中内に先に済ますか、後の月命日に合わせてしまうかどちらかにするとしよう。


漁村を舞台にした民話的要素の強い、幻想的、ダイナミックな作らしいのだが、作曲家も台本作家も寡聞にして知らない。海、海の男たち、異界からの侵入者たる謎の女、その出現による破滅とカタストローフに至る筋、道具立ては逆オランダ人を思わせる。問題は曲だが、さてどんなものであろうか。些かの興味はわく。今回はピットに入るオケが仙台フィルではなく東北大学の学生オケである。それがどの程度の、どんな違いになるのかは気になるところだ。昨年の『魔笛』では仙台フィルのぬるい感じが不満であった。いずれにせよ3月にストックホルムフィルを聴いて以来、実演を聴くのも半年ぶりだから、たとえ音の悪い県民会館であれ、日頃オーディオ慣れしてしまった耳と感覚のためにはそれだけでも意味はあるわけではある。

純粋に音の観点から言えば東北大の萩ホールが望ましいが、残念ながら実際にそこが演奏会場として使われることは少ない。音の悪い県民会館やイズミティ21が使われるのには地方文化事業政策上、商業上の事情もあるのだろう。無論萩ホールは劇場ではないし、本格コンサートホールとして舞台上の制限は普通の多目的ホールより多かろうから設備上オペラ公演が可能なのかも疑問なのだが、正直なところ県民会館も、たまに外来オペラが無理にやることもあるイズミティ21も似たようなものではあろう。諸々の制約を越えて萩ホールがもっと使われるようになればいいのだが。

何はともあれ、20日を楽しみにして待つとしよう。気持ちの良い秋の日であることを願いながら。

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2010/09/04

エリートたる者は




番組で高校生の全国高等学校クイズ選手権の模様を観たが、優勝した開成を始め準優勝の浦和にしてもどこにしても、上位進出した一流進学校の実力の程はなかなかに大したものであった。没落の坂を下り始めているこの日本で、それに抗う力になることができるかどうかはさておいても、彼らのような者たちが将来この国の第一線で活躍する日も遠くはあるまい。確か一昨年も見た記憶があり、その時も大いに感心したことを思い出したのだったが、そこにはエリートたる者に共通する一つの特性も見えたのである。

クイズ的な雑学知識や解答技術は当然だが、決勝に残るような者たちは皆、そもそも良く勉強している。基礎から応用まで、文系、理系、教科、分野を問わずそれぞれ実際に使うことの出来る知識となっているところが見事だった。多くの者が東大、京大を当たり前に志望しているが、受験勉強自体に苦労している様子はさらさらない。彼らには受験も普通の試験と同じ通過点に過ぎないようなのだ。

つまり、彼らにとっては勉強も知識も当然目的なんぞではなく、実に単なる手段だということである。一流アスリートが自身を鍛えるのはそれが目的なのではない。その先の勝負が問題なのである。それと同様、彼らも自分を良く鍛えているが、それは既にその先を見据えているからである。そして自分を鍛える点において何の躊躇いもない。これこそエリートたる者の特長でもあれば要件でもあろう。目的達成のための手段において苦労しないのである。演奏家は楽器が自由に弾けて当たり前、その上でどう解釈し何を表現するかが問題なのである。作家ならば言葉を自由に操れるのは当たり前、その上で何をどう表現するかである。楽器が弾けてよかったとか、言葉をマスター出来て嬉しいとかではないのだ。それらはただの前提に過ぎない。彼らにとって重要なのは常に知識や技能のマスターの先にあるものであって、途中で引っ掛かっていることなぞはあり得ないことであろう。仮に彼らが外交官となって各任地に赴任したら、その都度その先々でどんな言語でも選り好みせずマスターしてしまうことであろう。

そのような者が世の中にはいるのであり、一流進学校にはそんな者が毎年集まって互いに切磋琢磨を繰り返しているのである。その中で更に一流の者と超一流の者とが分かれてくるものでもあろう。さて、それにしても将来のエリートたる者の自分を鍛える点において一切容赦のない姿勢、これは遺伝なのか、才能なのか、果たして環境によるのか、教育によるのか、ひたすら個人的な資質によるものなのか。低徊趣味の私のように手段を獲得する段階で四苦八苦している者がいる一方、もう一方では先の目的のみ見据えてひたすら前に進んでいく者たちが少数ながら存在する。この差は如何ともしがたいものだ。開成や麻布に行ったかつての教え子たちは、さて今どのレベルにいるものだろうか。突き抜けた者はいるか。無論エリートは少数ゆえにエリートなのであり、大勢がそうであればもう特別ではなくなってしまうのであるが。

記憶力、理解力、集中力、持続力、やる気といった能力が鍵であろう。当然これらの能力には個人差が大きい。複合すれば、なお差は大きくなろう。「天才とは努力し得る才である」と言ったのは天才Goetheである。目的と手段が一致したところに生まれるのが天才であろうから、目的に邁進するだけの彼らは天才ではなく秀才なのであろうが、それでも「努力し得る」という特性は全く共通しているようだ。それに従えば後の3つが重要だが、前の2つの程度によって結果はまた更に異なってもこよう。エンジンが同じでも機体が違えばその飛行機の性能はかなり異なってくるわけだから。ただ、経験からしても努力し得る才を欠いてはどうにもならぬというのは見やすい道理だ。燃料のないエンジンに価値があろうか。これまで見てきて小利口なだけといった連中でうまくいった者は一人もなかった。そこそこの努力、苦労なしで行ける範囲に留まって、それ以上に進むことがなかったから。確かに「努力し得る」というのも「才」であったのだ。


さて、TVを視てチラホラと考えてしまったが、一つ確かなのは、本物の連中はこんなことは気にしないだろうということと、私がそうするには奇跡が必要だということだ。全く気に喰わぬことである。


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