仙台に戻ってきて困ったのが、行きたいコンサートがまずなくなってしまったことである。独襖系の楽団の音を好んで聴いてきた私にしてみれば、当の楽団が来てくれぬことには話が始まらない。神奈川にいた時分は、現代の東京や横浜などおよそクラシック音楽に親和性のある文化的環境とはとても思えなかったが、
駅や駅前の無秩序でせわしのない人の流れと雑踏、雑然たる街路と統一性に乏しい街並み、視野をさえぎる雑多な看板と電柱や電線の氾濫、カラオケ屋にパチンコ屋の喧騒、垂れ流されるスピーカー音や電子音に騒音、帰りの電車のうんざりさせられる混雑と酔っ払い、現代日本の見識なき文化政策と浅薄なビジネス臭等々、劣情と手軽さに流れる現代社会の有様は楽音の泉とは無縁、没趣味の世俗的風土と思えたのだが、
それでもまだ楽団が来るだけよかったのである。当時は気に食わぬことが多かったが、愛好家にとってみれば(ベストだと言えるはずはないにしても)それはそれなりに恵まれた環境であったと、今にして知れるのである。
さて、官主導で「楽都」と名乗っているものの、誰もそうは思っていないこの仙台にも、時にはドイツの楽団が訪れる。(招聘元よ、ありがとう。)主に東芝グランドコンサートなどの冠コンサートがそれだが、年に1度(年にたった1度きりとは!)どこかしかがやって来て、今年もセミヨン・ビシュコフとWDR Sinfonieorchester Köln (WandやBertiniの録音で親しんできた前のケルン放送響)がやって来ることになっている。(
来る3月3日の公演で、券は当然我が手元にある。来月が楽しみだ。)
そして、昨年やって来たのがロジャー・ノリントン(Sir Roger Norrington)とシュトゥットガルト放送響(Radio-Sinfonieorchester Stuttgart)であった。
来ると聞いて当然考えたわけである。ノリントンと言えば、あの音に聞くノン・ヴィブラートのピュア・トーンだ。これは到底聴かずに済ますわけにはいくまいと。録音では些か聴いていたものの、実際に大編成のモダン・オーケストラがヴィブラートなしで一体どんな響きを出すものなのか、ぜひ直接確かめてみるべきであった。古楽仕込みの小気味のよい、時に騒々しいほどの打楽器の打ち込みや野趣にとんだ金管の「ブワーッ!」などもいかにも楽しそうであったし、うまくいけば精妙でニュアンスに富んだフレージングや風通しのよい清潔で清々しい音の重なりが聴けるだろうと思った。仙台で得られる数少ない機会を逃すべきではないことは勿論だが、メインのBrahmsなどこれまで馴染んできた後期ロマン派の響きがノリントンによってどのように変わって響くものか興味深く、彼ならではのアイディアがあふれているにも違いなく、行く前から興味は尽きなかった。
更にもう一つ言えば、ドイツの楽団を愛好する者としてみればオケの現在が気になっていたということもある。SWR本拠地の第1オケであるから悪かろうはずもないが、ノリントン以前は録音も決して多くなくて、BayernやHamburgは言うに及ばず、FrankfurtやKölnやBerlinに比べても印象のとぼしかったStuttgartの放送オケである。チェリビダッケは録音嫌いであったから、かつてはそもそも耳にする機会がラジオ放送ぐらいしかなかったし、マリナーは没個性の極みで、いっこうに魅力が感じられなかった。先代のジェルメッティ時代も指揮者がやけに太ってきて大丈夫なのかと心配に思ったくらいで、やはり印象が薄く、録音で窺う限りは随分と鳴かず飛ばずだったわけで、そんなオケの現在は、さてどうであるのかも少なからず興味があったのである。ノリントンになって早10年、いったい以前とどう変わったのであろうか。というわけで、ちょうど一年前のことだが、聴きに行ったわけであった。
演目はブラームスの1番をメインにして、前にサリヴァンの「近衛騎兵隊」序曲とベートーベンの4番のピアノ・コンチェルトを置いたオーソドックスなスタイルで、ソリストは小菅優であった。取れた席が3例目と第1ヴァイオリンのすぐ前で近すぎるのが気にはなったが、1年に1度のことゆえ贅沢は言っておれない。ノン・ヴィブラートのあり様を目の前で見せてもらうつもりでいるとしよう。そっけない響きのホールにも同様に贅沢は言っておれぬ。来るだけ良しとせねばなるまいなどと思いながら、会場のイズミティ21には散歩を兼ねて歩いて出かけた。
04. Februar. 08 | 19.00 Uhr | イズミティ21大ホール
Radio-Sinfonieorchester Stuttgart
Sir Roger Norrington
Yu Kosuge, Klavier
Arthur Sullivan The Yeomen of the Guard Overture
Ludwig van Beethoven Klavierkonzert Nr. 4 G-Dur op. 58
Johannes Brahms Sinfonie Nr. 1 c-moll op. 68
Zugaben
Benjamin Britten Matinees musicales op. 24 - March
思えば、ブラームスの1番はこれまで演奏会で最もよく聴いてきた曲の1つである。シュタインとバンベルクの細部までよく神経のいきとどいた、いかにも手作りの味わいが香った、暖かい木組みの家のような演奏、それとは対照的だったエッシェンバッハと北ドイツのある種ハンブルク空襲の記憶を呼び覚ますかのような、荒涼とした廃墟的心象風景、ヘルビッヒとドレスデン・フィルの中欧の響きが心地よい、落ち着いた堂々たる演奏、朝比奈と新日フィルによる老いてなおカクシャクたる、クレンペラーを意識した(と当人が言っていた)演奏、インバルとベルリン響の精緻でいながら意外にも古めかしかった演奏(アンコールが何と終楽章をもう1度というのにも驚かされた。初演時でもあるまいに、19世紀的とでもいおうか、いかにも昔のコンサートスタイルではなかろうか。)、ベルグルンドとストックホルム・フィルのとてもさらっとしたシベリウス的演奏等々、渋いところを特に選んで聴いてきたような感じだが、今回はさらにどんな記憶を刻んでくれるか。
時間になって登場してきたオケの団員には、古参の団員を中心に適度に親密なリラックスしたムードがあって、悪くなかった。全体に不要な力が抜けた自然体という感じで、もしかしてこれはオックスブリッジの人、英国人ノリントン故ででもあったろうか。最近では(頭が薄いのはいいとしても)すっかり腹の出た、今年もう75になるノリントンであるが、彼を見ていると、いまだカレッジやパブリック・スクールの屈託ない雰囲気がどことなく漂っているような気がするのだ。
彼の放つ、学生寮にいる変わり者のへんてこ学生じみた陽気な気楽さが、元来クールなドイツの放送オケにくつろいだ雰囲気と学生の出し物めいたワクワク感をもたらしているように思われたのである。98年以来のコンビだが、これは良い組み合わせだったのではなかったろうか。
最後に現れたコンサート・マスターは、小柄で若いKonzertmeisterinで、名前(
Mila Georgieva)
から推して東欧の出身らしかった(後で調べると、この音のきれいな東欧系の美人はブルガリア出身の元々はソリストで、RSO Stuttgartでは2003年の10月から務めているようだ)。オケは当然の対抗配置であった。
程なくして現れたノリントンは(何のつもりか知らないが)例のカンフーマスターのような格好で、こだわりなくいかにも楽そうであったが、それにしても腹が出すぎているようである。最初の挨拶であるサリヴァンの曲は活気のある愉快なものだったが、見ているとノリントンの方が愉快であった。やる気があるのやら、ないのやら、とぼけているのか、いないのか、時に客席を見、けれん味と英国流ユーモアの複合であった。(私は昔伊勢原で観たケンブリッジ・バスカーズを思い出し、またなんとなく、ピンク・パンサーシリーズやミスター・ビーン、007は二度死ぬで日本人に扮したショーン・コネリーなどを思い出した。)ピュア・トーンの何たるかが示される曲ではなかったわけだが、それでも目の前でヴィブラート無しですっきりと、そしてどことなく慎重に指を運ぶ弦楽器奏者たちを見ていると不思議な気がしてきた。金管や打楽器は華やかに突出して、1曲目は楽しい曲を楽しく演奏して、我々もそれを楽しく聴いた。
コンチェルトではピアノが入れられたが、これは普通とは異なるノリントン流の配置で、蓋を外されたピアノが向こう向きに、まるで弾き振りの時のようにオケに取り囲まれる形に置かれていた。ピアニストは客席に背中を向けて弾くわけだが、指揮台もなく、ノリントンはピアノの傍らにそのまま立って、同じ平面上で指揮をするのである。ベートーヴェン時代がそうであったのかどうかは知らぬが、確かに親密度と一体感は増しそうだ。冒頭のピアノは普通のアコードでではなく、古楽の演奏でたまにあるようにアルペジオで始められて、オッと思わせられたのだが、後は特に古楽流というわけではなく普通にモダンな演奏であった。余り重く、長く響かせずにすっきりした音でノン・ヴィブラートのオケにつりあうようにしていたが、オケの方は響きにいよいよその本領を発揮し始めた。見通しのよいピュア・トーンがスーッと伸びて耳に達するのは、これは快感である。金管とティンパニは活力に満ちて荒々しく、時に音が割れるほどに強奏されるのは楽しかった。
そしてお待ちかねのブラームスである。一転して増員されたオケはステージいっぱいに広がり、3列目の左側に座っていた私から見えるのはファースト・ヴァイオリンばかりである。首を回せばノリントンの突き出た腹、もっと首を回せばセカンド・ヴァイオリンが見える。木管奏者など奥が見えないのはよろしくないが、やむをえないところではある。
すぐ目の前には巻き毛のとろけるような美男子がいたが、いかにも魅力的で感じのよい彼を見ながら、私はRudolf Schwerdtfegerを想い起こした。トーマス・マンの『ファウストゥス博士』に出てくるヴァイオリニストで、孤高の天才作曲家Adrian Leverkühnの寵愛を獲得し、それ故に悲劇的な死を迎えることになる愛すべきルーディである。トーマス・マンと違って私にその気はないが、それでもしばし見とれた。
始まったブラームスはピュアな疾風怒濤であった。するどく叩き込まれるティンパニ、ノン・ヴィブラートながら荒ぶる弦、咆哮する金管、よく通る木管、余分な脂肪の落ちたスリムでストレートな迫力が迫ってきた。バランスはところどころ独特で、普段聴こえないような音型が聞こえてきたり、対比や掛け合いが鮮明に示されたり、ノリントンの仕掛けが粘らずさっぱりとしたピュア・トーンで次々に表される。聴く面白さという点では抜群であった。
ノン・ヴィブラートの徹底は、よく見ていると100%ではなく、厳密に守っている奏者とつい指が動いてしまう団員が混在してはいた。前列でトップに近いほど厳密で、後ろの方に座っている団員では微妙にヴィブラートをかけてしまう奏者が散見された。その割合はおよそ2割といったところか。だが、全体に「気をつけています」という気配はやはり少々感じられた。ドイツの楽団がブラームスをやると否応なく体が揺れてくる例が多いのだが、ノン・ヴィブラートの清潔なフレージングを意識して心がけているせいか、さすがにやや慎んでいるという感じはあったのである。自然なmusizierenではなく、頭で考えたブラームスという趣で、常に理性が覚醒している気配であった。当然、感情から心底没入し、全体がうねるように燃え上がるというのではなかったわけだが、ドイツ人のブラームスが常にそうでなければならないというものでもあるまい。風通しがよく、知性の光に照らされたブラームスというのも悪くはなかった。
というわけで大いに楽しんだわけである。ノリントンの仕掛けを楽しみ、オケのピュア・トーンを楽しみ、エキサイティングな演奏スタイルを楽しんだ。感動の質は"Tragädie"ではなく"Komödie"、「あはれ」ではなく「をかし」だったわけだが、一度聴いてしまうと変に癖になるところがある。そして困ったことに、普通の演奏が退屈に感じられてしまうのだ。そこには研究と探究の実験と実践があり、その試みは確かに面白いのである。そして見ていると、聴く方ばかりか、する方もまた面白いに違いないと思えるのだ。そこには自由な討論と議論があり、柔軟な探究心があり、最早後戻りのできない新しい知の在り方が感じられる。