2009/01/30

バーニャのパン "Pain bagnat" 再び

先日、ほぼ1年半ぶりにバーニャに出かけた。知らぬまに店のファサードが変わっていて(前はpanだったが、今度はpain)、かくも長き無沙汰であったかとすまなく思う気持ちも(何がすまないのか知らぬが)ちらりと走ったが、中に入ってあのむせかえるほどのバーニャの匂いに包まれた途端、18ケ月に及ぶ時の隔たりは瞬時に消え失せてしまった。鼻腔から奔流のように流れ込み、まとわりつくように我らの官能を鷲掴みにする例の匂いは全く変わっていなかったのである。
(変わっていたのは店の正面だけで、匂いも店内も
ぜんぜん変わっていなかった。)

あれほどの匂いはどこにもない。店で匂うばかりではない。たった1個のカンパーニュを家にもって帰って袋から取り出す。すると部屋中に匂いが満ち溢れるのである。取り出したパンを左手でささえて、右手で切る。するとパンを持った手も、ナイフを持った手も窯くささに煙るかのようである。我々はバーニャのパンを食べる時、ただパンを食べているのではない。無比の匂いも食べているのだ。これこそこの店の紋所である。


朝一番に行ったので狭い店内にいるのは私だけで、
無論一歩入った一段上のレジスター前にはパワフルなお母さんがいたし
(帰りには「どうもでしたー」と声をかけてくれるし、時々一切れ切ってくれる)

まだ分けられていない大きなパン生地ののった奥の作業台には若いが目力のある頼もしい店主と
(以前、用事で仙北の田舎の方に行くことを話したら、宮城の米どころのうまい米に負けない、きちんとした主食になりうるパンを焼きたいと言っていた)

共に作業中の同年輩の職人が2人いたが
(初めて見た)
焼き上がって強烈な存在感を主張するパンたちにゴロゴロと囲まれて、実に贅沢な時間と空間を独り占めすることができた。


それにしても、このバーニャのパンどもの存在感と個性はどうだろうとつくづく思う。並大抵のものではない。久しく遠ざかっていた私は、しばらくぶりに直接それらを目の当たりにして、その一個一個から強力に放射されてくるパワーに改めて感嘆の念を禁じえなかった。


棚の前に立つ私に、それぞれのパンが自己の存在を強力にアピールしてくるのである。
「さあ、俺を是非食べてみてくれ。俺は滅法うまいぞ。」とか

「選ぶなら、このあたしを選んでちょうだい。よそのだれともぜんぜん違うんだから。」とか

「おい、滋養のあるいいものを食えよ。例えばこの俺様をな。」とか

ジッと見ていると一個一個のパンから、そんな声が聞こえてくるかのような錯覚に襲われるほどなのだ。

(私はこの印象が決して大げさだとは思わない。朝、独りきりで、焼き上がって所狭しと並ぶバーニャのあのパンたちと直接対面してみれば分かるはずだ。一個一個のパンの顔が見え、声が聞こえてくる気がするに違いない。何をバカなと思われる方は機会を見つけて是非試してみられよ。)


雄弁な個体あり、朴訥、寡黙な個体あり、ざっくばらんで朗らかな個体もあれば考え深く気難しげな個体もある。その有り様は実に面白い見もので、その強烈な個性の陳列はしばし見飽きることがないが、そのどれにも共通しているのは、見事なほどに気取りのない逞しさである。ハード系のパンたちは言わずもがな、ソフト系のパンたち、ペストリー、タルト類に至るまで、みな健康で逞しく、力強く骨太だ。農耕馬のように頑健そのもの、実質に満ち、およそ繊細ぶったり、上品ぶったり、気取ったりといった無駄なポーズがない。(逞しい働き者に素顔美人、言ってみれば風大左エ門に菊ちゃん、花ちゃんといったところか。)顔の焦げ、傷やたんこぶの1つや2つなにするものぞ、虚飾を軽蔑し、中身で勝負する。無論ストレートの真っ向勝負だ。彼らの健やかで飾り気のない、質実剛健ぶり、素朴でおおらかな有り様、信じる道をまっしぐらに突き進んで行く強い意志を見ていると何とも清々しく、元気で晴れやかな心持ちになる。


当然、華奢な繊弱さはどこにもない。軟弱、虚弱、病的なものは一個、一片たりとてない。つまり、華奢ではかなげな美人薄命といったような、言わば佳人の趣をもったパンはそもそも「原理的に」ありえないわけで、もしそういうものを求めるなら、どこか別のところを探すほかない。退廃と紙一重のデリケートな媚態、爛熟、アンニュイな眼差し、蠱惑的な洗練や手練手管などはバーニャには金輪際無縁なのだ。人の好みとは勝手なもので、時に病弱はかなげな佳人に惹かれることもあり、人をたぶらかす性悪女に入れ込むこともある。ファム・ファタール(Femme fatale)に身を滅ぼす破滅の誘惑もないわけではない。デカダン派を好む者にとってはバーニャは健康的に過ぎるだろう。デカダン(dcadent)、そのようなものは、たとえ上から下まで探し回ったところで(たとえ逆さにしたって)バーニャでは見つかりっこないのである。バーニャの健やかさは筋金入りなのだ。



バーニャのパンどもは世の中が過度に複雑化する以前の力強い大地に根を持っている。黄金色に実った麦、ふりそそぐ陽光、大地をしめらせる雨に人の世の俗な思惑はない。

s.バーニャのパン "pan bagnat" (2008/05/28)

2009/01/27

Boulangerie Sakurai Toshitakaのパン

Boulangerie Sakurai Toshitaka (ブゥランジュリ サクライ トシタカ)  を見つけたのは偶然だった。普段の散歩の足をぐっと伸ばして岩切の方まで行った折に、小さいが雰囲気のある店に目がとまって、そのまま入ってみたというのが4年ほど前のことである。ちょうどプチマドレーヌを売り出したかした時で、パンのおまけに2,3個入れてもらったような気がする。バーニャのような強烈な個性はないが上質なパンが並んでいる気配であった。長い散歩の帰り道に歩きながら1,2個かじって、以来よく行く店の1つになっている。去年は高森のキャラウェイに2号店もできて、さすがにどちらも歩くには遠いのだが、車で走るには同じようなものだから、月に何度かは(一方或いは両方に)行くという感じである。

気に入って、有れば必ず求めているのは、

「カンパーニュ」(Miche de campagne aux levain)
これは食事パンとして素晴らしい。もっちりした内部に味わい深い外皮。魅力的な気泡があり、そして風味が良い。店自慢の逸品で見た目の風合いも良く(バーニャの野趣あふれるカンパーニュと違って、かっこうもよい)、切らずに丸のまま求めれば、直径30cm超の立派なたたずまいで、十分お土産としても持っていける。
「レーズンバタークリームが挟まったパン」
これは必ず帰り道にかじることにしている。何といってもぱれっとしているうちがうまい(時がたつと香りがとぼしくなる)。ばふっと丸ごとかじると香ばしい小麦の風味が鼻に抜けてくる。バタークリームもうまい。(バター高騰のおり、キャラウェイ店ではせっかくのこのうまいバタークリームが単なるホイップクリームのようなものになったことがある。これは実にけしからんことであったが、その後元にもどり私は大いに安堵した。)
「キャラウェイ店で3日毎に焼いているという50%のライ麦パン」(Pain de seigle)
なかなか焼いた日に当たらないのだが、当たる当たらないも楽しみのひとつと思って、行く前に確かめたりはしない。所謂Mischbrotだが、ライ麦パンらしいライ麦パンで、その点ではバーニャにまさる。このライ麦パンにはアプリコットの入ったものやビターチョコレートがねじ込まれたバリエーションもあって、チョコレートのものなどはそのままでバッカスの友たりうる。(岩切本店でも焼けばいいのにと思うのだが、泉のキャラウェイ店でしか焼かないというのもそれはそれでわるくはない。向こうにはカフェがある。)
以上の3種である。

ここのパンを食べ始めて4年ほどの時が経ったが、泉キャラウェイ店の出店などに伴う諸々の混乱を乗り越えて、現在が一番安定しているのではないだろうか。今なら安心して人にも薦めることができる。買ってきたうまいパンを食しながら、私は満足する。それでもふと不可解な過去が頭の片隅をよぎり、そして、ちょっとした今昔の感も覚えるのである。私はふと思い出す。

一頃は
今ではもうそんなこともないが、一頃はパンの出来映えにも接客にも結構むらがあって、時々「あれっ、どうしちゃたの?」ということも一度や二度ではなかった。客としては当初、ずいぶん戸惑ったものである。
前にうまかったパンが次はそうではない。毎度必ず買っていたものがあったものだから、否応なく違いを感じざるを得なかった。帰り道に必ずかぶりついていたレーズンバターのパンなどは、ある時は実に香ばしく麦の力強い香りが口腔内に広がり、心地よく鼻から抜けていったものが、またある時はふがふがの食感ばかりで、およそ風味というものがなくなっていたという具合である。私は帰りの車内で、あったはずの香りを虚しく探し求めたりもした。

いくら呼んでも誰も出てこないこともあった。いないのではない。奥に職人はいて誰かと話をしながら、そして客に気がついていながら、接客は自分の任にあらずを決め込んで一言の断りもないのである。奥には小さな子供とその母親の声も聞こえ姿も見えていて、彼らにもこちらの声が聞こえていないはずはないのだが、やはり出て来ないのである。カウンターにはあきらめて帰ったのであろう、前の客が残していったと思われるパンの載ったトレーがそのまま放置されていた。私は帰るつもりはなかったが(出て来ぬなら出て来させてみしょうホトトギス)、『これはいかんだろう』と思ったものである。やっと出てきた手伝いの中年女性は残されたトレーを見ていぶかしんでいた(「これお客さんのですか?」)。職人もその時当番でないにしても店の子供の母親も何たる不心得か。

昼前に行ったところ、目当てにしていたハード系のパンが全然ない。のっそり出てきた職人にハード系のパンはもうないのかと聞くと、これから焼くんだからまだないよと言う。見れば確かに、さすがに寝起きではあるまいが、「さあてこれから仕事でも始めてみようかな、ふあぁ~」という感じである。 豆腐屋と並んでパン屋は朝が早いもんだと思っていたものだから、これにもやや驚いたものだ。今にもタバコでもふかしそうなその職人の様子から推して、もしかするとこのパン屋はサクライ トシタカとその仲間たちによるイージーライダー的な店なのかもしれないと思ったりもした。『こいつらは自由を求めて集まった仲間たちで、好きなときに好きなパンを好きなように焼くだけで、世の中の要請などは全く気にしていないのに違いあるまい、フランスの衣をまとっているが中身はアメリカンなのだ、連中のメンタリティーはBoulangerieというよりもDinerに近いのだろう、きっとそうだ、そうに違いない』と(上述2つの点もあって)考えたわけである。(もちろんそんなことでは全然なかったのだが、その当時は店主を見たことがなかったのである。)


今なら分かる
私がこの店でパンを買い始めた当時は三度に一度はこんな具合で、いい時はいい(わるい時はわるい)という店であった。これはいったいどういうことであったのか、キャラウェイ店を出店してそれなりに落ち着いてきた今の目で振り返ると、なにやら分かるような気もするのである。キャラウェイへの出店ではその準備のために長いこと本店は完全におろそかにされて、客に対して情報らしい情報も出なかったが、3,4年前当時の味や接客の不安定と昨年の新店オープン準備期の混乱には通底するものがあるように思えるのだ。

というのも、あの岩切店の外観からは想像しづらいが、意外にもこの店には前から、この地を飛び出してもっと広い世界に出て行きたいという拡大志向が認められる気がしていたからである。利府のヨークベニマルに卸したり、出張販売を行ったり、他にもどこかの店にでも納めていたのだろうか、納品用のパンケースがよくカウンターの奥に何段も重ねられていて、店そのものの棚が二の次になっているようなことが時々あった。また店の若い母親に接客のうるおいというものが欠けていることもしばしばであった(今は全然違うのだが)。夢があったのか、生活があったのか、愛する家族のためであるのか、将来への不安であるのか、そこにはなんとかして世に躍り出ようともがいている気配が垣間見え、しかしなかなか思惑通りにいかないというザラッとした気配も(利府のヨークベニマルなどであの手のパンが売れるはずもなかったろう)見て取れるようであった。そして特に不思議だったことが、あんな小さな店だというのに、店で店主を見かけたことがないということであった。バーニャに行けばたいてい店主を見かけるし、話をすることも出来る。そこには強烈な個性の一貫性があり、亭主の意志が店の隅々まで貫かれている。ところがサクライ トシタカの岩切のあの店には当時、店主の気配がほとんど感じられなかったのである。自身の名前を冠していながら、そこにすべてを懸け、注ぎ込むという感じでないところが私なぞにはやや物足りなかったのであるが、今思えば新店出店の夢を腹の中に抱え、それ目指して直接、間接にいろいろと飛び回り活動していたのではなかったろうか。そうして、あれこれとうまくいったり、いかなかったりしていたのではないかと推測するのである。店主にはここだけにかまけてはいられない、他にやることがあるという気の離れがあり、夫人には不安があったのではないかと想像する。そうでなかったら、あんな味や接客のむらが、またあんな職人の態度があるはずもなかったろう。

となると、あらためて昨年のキャラウェイへの出店はまさに待望のことであったろうし、念願であっただろうということも分かるのである。オープンに向けて本店の方が完全にお留守になったという(普通に考えれば不手際も)、そう考えれば理解できる。スタッフがそろい、キャラウェイ店がめでたくオープンし、(ハード系のパンを求める客層の幅が岩切とは比較にならぬ)高森の地に足がかりを得て夢は実現したのである。もしかするとこれはまだもっと大きな夢の一環でしかないのかもしれないが、それでもこの一歩の意味は大きい。踏み出せたのとまだ踏み出せずにいるのとでは、客観的な状況としても当事者の気持ちとしても雲泥の違いがあろう。オープンから数ヶ月を経てそれなりに軌道にも乗ってきて(初めのうちはそこの窯に慣れていなかったのか、スタッフが不慣れだったのか、全然違った姿のクロワッサンが並んでいた。今では本来の姿である)、それにともない岩切本店の方もまたいい感じに落ち着いてきたように思える。全体に以前よりもゆとりがあって、心地よい雰囲気が感じられる。この間は、実に初めて店主の姿を本店で見ることができた。

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勝手な推測であるが、もろもろの件を考え合わせた私なりの解釈ということである。正しいかどうかは別にして、当時戸惑い、それでも今日までそのパンを食べ続けている自分のために一連の不可解さを解いてみる必要があったわけだ。1つ言える心得は、初めて聴く演奏家を聴く時の心得と同じである。つまり、1度だけで判断するべきではない。少なくとも2度は耳を澄ますべきだ。あり得るかもしれない可能性に耳を澄ますべきであろう。それでよければ聴き続けていって損はないのではあるまいか。

2009/01/24

Buddenbrook翁のつぶやき3

„Der Mönch am Meer"(von Caspar David Friedrich)

再び承前
さて、どうすればいいのか。とどのつまり、認識のどんづまりへと立ち至るわけである。その点においては、
老Johann Buddenbrookであれ、
「奇妙だ…奇妙だ」
"Kurios! Kurios!"

Faustであれ、
「さて、とっくりとわかったのが、人間、何も知ることができぬということだとは。思えば胸が張り裂けそうだ。」
"Und sehe, daß wir nichts wissen können!
Das will mir schier das Herz verbrennen."

名だたるRomantikerたちであれ、

「純粋に生じたものは謎だ。また
 歌にもこれを解き明かすことは許されない。」
"Ein Rätsel ist Reinentsprungenes. Auch
  Der Gesang kaum darf es enthüllen." (Hölderlin)


「芸術は自然と人間との間の媒体として現れる。本源的な模範はあまりにも壮大で、またあまりにも崇高なので捉えることができない。人間の業であるその模写こそは力弱き者にいっそう身近なものである。」 (C. D. Friedrich
何ら変わるところがないように思われる。つまり、行き着いた到達地点から先は結局分からずじまいなのだ。しかも、その限界地点にはあまりにも早く到達してしまうのである。人により鋭鈍の差こそあれ五感という感覚器官の制約があり、第六感は不確かであり、それらを超える認識器官はいまだ持ち合わせておらず、言語だとてどこまで当てにできるものか。
 「私の言語の限界が、私の世界の限界だ。...語りえぬものについては、沈黙せねばならない。」
"Die Grenzen meiner Sprache bedeuten die Grenzen meiner Welt. ...Wovon man nicht sprechen kann, darüber muß man schweigen." (Wittgenstein)
21世紀初頭の我々にしたところで、宇宙や原子、脳や遺伝子その他諸々についてかつて考えられなかったほどの知識を得たはずだが、一寸先の未来すら見通せず(見通せると称する人もいるが)、生と死の意味を知らない(知っていると称する人もいるが)。「そもそもそれは何なのか?」という根本的な問についての解答力となると、いっこうに上がっているようには見えないのである。ものの「仕組み」や「成り立ち」、「現象」についての理解がいくら増しても、その「正体」、その「意味」となると、我々が持っているのは多種多様なただの「解釈」であって、絶対の「認識」では全然ないのである。

それにしても、どんづまりにとどまっているというのは決して愉快な状態ではない。有限の人間であれば、その知覚や認識力を越えた「不可知」なものに対する「不可解」という状況は、その始まりの時から当然の運命であったろうけれど、それを何とかしたいというのも当然の欲求であったろう。そのものの正体や本当の意味を知り得ないという絶対の認識の不可能性を前にして、別に気にならないという立場もあるが、気になる場合には、はて我々の取り得る態度は大まかに4通りほどあるだろうか。

1.宗教。
2.と3.の要素を持つ場合もあるが、おおむねなじみの態度だ。祈りや観想、修行の先に神の国や悟りの世界が開けるかもしれない。現代では最早主流ではありえないにしても、人間の在りようとして本来の正統派といえば実はこれであろう。盲信や狂信でなければ、これはこれで十分納得がいく態度だ。
2.認識の限界内で有限な存在である人間としての最善を尽くすとともに、その分を守る。
2.は堅実で実際的な態度だ。限界内で最善を尽くすというのは立派な態度であろう。そもそも限界内の事柄であれ全てを知り得ることは不可能なわけだから、限界外のことに先走って手を伸ばすというのはこらえ性のないことでもある。
Kantは人間の知性が主権を持つ現象世界と、科学的探究を免れる実体の世界との間に越えることのできない境界を設定した上で、現象世界の確定自体が終わりのない旅であることを(意外にも詩的に)語っている。彼の言葉を読むと哲学が立派な男の仕事であることが感じられる。
「我々はただ単に、純粋な悟性の国を遍歴し、入念にその各部分を考察したというにとどまらない。測量もし、おのおのの事物がそこに占めるべき場所の決定もしたのである。しかしこの国はひとつの島であり、しかも他ならぬ自然がそれを不変の境界の中に閉じ込めてしまった。それが"真理"の国なのだ(何という魅力的 な言葉か)。それは仮象の場である広大な荒々しい大洋に囲まれている。…この新しい国は、そこに心を奪われた熱狂の旅人を絶えず失望させながら、彼を冒険に誘う。旅人はもはや決してこの冒険から離れられず、しかも決してその冒険を成し遂げることもできずに。」
3.認識の限界の突破を試みる。
ロマン派は失敗したわけだが、古代から現在まで脈々とこの伝統は途切れることなく続いていることであろう。秘教や神秘主義である。彼が説くようにして真に超感覚的世界の認識の獲得が有り得るのであれば、Rudolf Steinerは1つの希望だが。
4.背後の意味を否定する。
Nietzscheだ。
「どうすればいいのか」という観点から 4つに1つを選択するとすれば、どうであろうか。成熟した人間ならば2.であろう。いまだ夢想家である私は3.であろうか。

Buddenbrook翁のつぶやきから、思いがけず気になったのは以上のようなことである。


s.Buddenbrook翁のつぶやき1(2009/01/18)

2009/01/20

Buddenbrook翁のつぶやき2

承前
つまるところ、ロマン派が求めたのも我らが認識の拡大なのであろう。認識を拡大、深化させ、まだ解き明かされていないこの世界の真実の意味を探り出して、世界と人間を内面的に再構築してしまおうという壮大な夢想である。ロマン主義の思索家たちは、予感はされるものの通常の意味では認識されることのない” 天上の事物 ”をどこまでもつかもうと欲して、あれこれと(にぎやかに)試みている。

       Der Morgen" (von Philipp Otto Runge)

酸いも甘いもかみ分けたGoetheは、事物の認識に当たって、「測深鉛(Sonde)で測定しながら手に入れうるものを探究し、測定不可能なものは静けさをもって敬う」という立場にあえてとどまったのであったけれども、一方の彼らは測定不可能なものの世界を前にして立ち止まるつもりはさらさらなかった。彼らはその探究を試み、そのためには理性(Vernunft)は十分なものではなくなっていた。彼らは理性を謂わば何でもありのファンタジー (Fantasie)と入れ替えたのである。当然、そこにあるのは、Wackenroderにおけるような静かな感激に満ちた、秘めやかな夢想ばかりではない。ディオニュソス的な熱狂あり、狂信的神秘的な陶酔あり、熱に浮かされたたわごと、うわごとあり、自己顕示や自我インフレーションがあり、玉石混交、さながら子供のおもちゃ箱、がらくた箱である。

 ロマン派中のロマン派、生粋のロマン主義者Novalisは本物だろう。そこには一種精妙な霊気が漂っているかのようである。彼には会ってみたい。シュレーゲル兄弟(August Wilhelm Schlegel, Friedrich Schlegel)は実際に会ったら、おそらく鼻持ちならないだろうと想像する。

そこには本物もバッタもんもいっしょくたに詰め込まれているようで、たんなる思いつきや画餅以上のものではないものもしばしば目に付くのだが、それでも我々の認識能力を質的に転換し、認識領域の拡大と深化を図るための種々の装置が色々と考案されている。
  • 「ロマン的イロニー」("Romantische Ironie") しかり、
  • 「先験的ポエジー」("Transzendentale Poesie") しかり、
  • 「魔術的観念論」("Magischer Idealismus") しかり、
  • 「詩的省察」("Poetische Reflexion") しかり、
  • 「無限感覚」("Sinn des Grenzlosen") しかり、
  • 神話(Mythologie)、夢(Traum)、ポエジー(Poesie)、ファンタジー(Fantasie)、アラベスク(Arabeske)、メルヒェン(Märchen) しかりである。
Novalisは言う。

「ポエジーの感覚は神秘主義に対する感覚と多くのものを共有している。その感覚は未知のもの、神秘なもの、啓示さるべきものに対する感覚である。…それは描写不可能なものを描写する。それは不可視のものを見、感受しがたいものを感ずる。」


なるほど。だがしかしである。彼らは新しい精神の認識器官を想定したわけだが(それが発達すればそれまで認識不能だったものも当たり前に感受できる)、実際にそれを発達させ、通常の五感で事物を感じるのと同じ確かさで、捉えがたきものを明瞭に知覚することのできた者は、はたしてどれほどいたのかということである。それはロマン派のたどった運命を見れば自ずから明らかであろうか。ムーブメントとしてのそれはGoetheの生前に自壊しているのである。

実は昔から、(恥ずかしながら)その憧憬(Sehnsucht)の心情を共有している気がして、ドイツ・ロマン派には少なからず共鳴、共感するところがあったのだが、それ故にその限界も、残念ながら認めぬわけにはいかぬのである。彼らは謂わば門前の小僧に過ぎなかった。向こうの世界のことを声高に語るが、門の隙間からちらりと中を覗いた、或いは覗いた気になっているだけの場合が多いようである。実際に門の中に入って、向こう側を存分に検分し、実際に生きた者はいるのか。生粋のロマン的魂Novalisや控えめなWackenroder、朗らかなEichendorfには感心するが、Friedrich Schlegelの大袈裟な口吻を聞いていると(お前は本当に分かっていっているのか?)、しばしばうんざりさせられるのである。

彼らの認識は文字通り夢のように儚く、それを名づけるならば、あくまでも「予感」、よくても「直観」に過ぎなかった。 それで「分かった」とはさすがに言えまい。

というわけで、依然として「問」は残っているのである。書斎のFaustは当然(一體此世界を奥の奥で統べてゐるのは何か?)、Buddenbrook翁のつぶやきも(奇妙だ...奇妙だ...)、これではまだ治まる気配はない。では、どうすればいいのか。

につづく


s.Buddenbrook翁のつぶやき1(2009/01/18)

2009/01/18

Buddenbrook翁のつぶやき1

どのページを開いても楽しく読める作品というものがある。彫琢された部分部分はどこも見事で、細部まで的確な描写が嬉しくなってくるのである。私にとっては、例えばThomas Mannの『ブッデンブローク家の人々- ある家族の没落』 (”Buddenbrooks - Verfall einer Familie”)もそんな作品の1つだ。このクリスマスに、改めて制作された映画 (『ブッテンブローク家の人々』の映画化は2度目か)がドイツで一斉に公開されたというニュース を耳にして、「おお、そう言えばそうだった!」と久々に我が愛読書を思い出し、微かに積もった埃を「フーッ」と吹き飛ばしてみたのである。(埃の積もった愛読書というのもどうかと思うが、愛読書にも人生のその時々における持ち回りというものがあるだろう。)

さて、そうして適当に開けたページを気の向くまま楽しく読んでみたわけだったが、それは丁度、老ブッテンブローク最期の場面(第2部の第4章)であった。作品的には、その死をもってヨハン・ブッテンブローク商会の良き栄光の時は満ちて、いよいよ長い没落の季節の端緒が開かれたのであったが、それ自体としても些か気になるところがないわけではなかった。それは、長年の連れ合いを亡くしわずか2ヶ月を置いて自身も逝くことになったブッテンブローク翁の何度も繰り返されるつぶやきである。死の床にある夫人を看取り、更にそれからお迎えが来るまでの2ヶ月間、老人は事あるごとに「奇妙だ…奇妙だ…」 Kurios! Kurios! とつぶやき続けるのである。快活で精力的な実際家、現世に自足した世俗の人が、伴侶の死というものをきっかけに実人生から奇妙に切り離されて、突如としてとらえどころのない「生の根源的な不可解さ」の前に投げ出されるのである。


どこまで分かれば真に分かったと言い得るのか、或いは分かることはないのか、それがずっと気になっていた。今でも気になっている。昔「曰く不可解」と書き残して華厳の滝に飛び込んだ旧制一高生がいたが、私も(飛び込むつもりはないが)「不可解」とつぶやくことが少なくないのだ。その頻度は減ることなく(寧ろ増しているほどで)、今や「奇妙だ…奇妙だ…」とつぶやき続けた老ブッテンブローク並みである。


19世紀的実証主義の実際家として現世に自足してきたブッテンブローク翁だが、実際家故に理解不能なものを前にしてなすすべがなかったものであろうか。運命の傾斜と没落の予感、どこから来てどこに行くのか知らず、定かならぬ我らが生と死、諸行無常の不条理を前にして突如として根源的な「不可解」の念にとらわれてしまったのであろうか。だが、私がここで問題にしたいのは、自らが信じ、拠って立つ人生の基盤が、伴侶の死という1つの不条理体験をきっかけにぐらついてしまい云々という月並みな原因の分析ではない。そうではなく、老人が陥って結局逃れることのかなわなかった「根源的な不可解さ」そのものの方なのだ。周囲を見渡して、この世界を解すべからざるものであると感じる感覚、それに伴う感情、解すべからずという認識から来る諦観、そしてそこからの跳躍と脱却、或いは解放と解決、或いは強行突破である。




「この世界の奥の奥で全てを統べている力を知りたい」と望んだのがGoetheFaustである。しかし、初めにFaust自身が嘆き絶望していたように、通常の学問をいくら修めたところで願いはかなわず、それではとすがった魔術によっても究極の認識には至ることがなかった。

はてさて、己は哲學も
法學も医學も
あらずもがなの神學も
熱心に勉強して、底の底まで研究した。
さうしてこゝにかうしてゐる。氣の毒な、馬鹿な己だな。
その癖なんにもしなかつた昔より、ちつともえらくなつてはゐない。
マギステルでござるの、ドクトルでござるのと學位倒れで、
もう彼此十年が間、
弔り上げたり、引き卸したり、竪横十文字に、
學生どもの鼻柱を撮んで引き廻している。
そして己達には何も知れるものではないと、己は見てゐるのだ。
それを思へば、殆ど此胸が焦げさうだ。 
Habe nun, ach! Philosophie,
Juristerey und Medicin,
Und leider auch Theologie!
Durchaus studirt, mit heißem Bemühn.
Da steh’ ich nun, ich armer Thor!
Und bin so klug als wie zuvor;
Heiße Magister, heiße Doctor gar,
Und ziehe schon an die zehen Jahr,
Herauf, herab und quer und krumm,
Meine Schüler an der Nase herum –
Und sehe, daß wir nichts wissen können!
Das will mir schier das Herz verbrennen.
無論、その後Faustは知っての通り、むなしい思弁的な認識ではなく、善も悪も迷いも過ちもひっくるめた人間的な懸命なる行為と建設的な活動の中に望んだもののもうひとつ別の(偉大で真実なる)を見出すわけだが、彼のパトスは行為者Faustの中に昇華し解消しても、認識者Faustが知りたいと望んだ問そのものは相変わらず残っているのである。

  世界の奥の奥で全てを統べているものは何か?
一體此世界を奥の奥で統べてゐるのは何か。
それが知りたい。そこで働いてゐる一切の力、一切の種子は何か。
それが見たい。それを知つて、それを見たら、
無用の舌を弄せないでも濟まうと思つたのだ。 
Daß ich erkenne, was die Welt
Im Innersten zusammenhält,
Schau’ alle Wirkenskraft und Samen,
Und thu’ nicht mehr in Worten kramen.
  生とは、また死とは何か?

  人間とは?

  樹木や星々、光や風、自然界が描く諸々の象形文字とは結局何であるのか?

我々はそれらの解を無数に知っていると同時に何も知らないのである。



この点、私は初期のロマン主義者、Ludwig Tieckの盟友、独創的なWilhelm Heinrich Wackenroderに共感を覚える。この芸術宗教の開祖とも言える夭逝の夢想家は、わずかな著作中の主著といえる芸術評論集『芸術を愛好する一修道士の心情吐露』 (”Herzensergießungen eines kunstliebenden Klosterbruders ”)の中のテクスト「2つの不思議な言語とその神秘的な力について」(”Von zwei wunderbaren Sprachen und deren geheimnisvoller Kraft ”)においておおよそ次のようなことを述べている。
造物主は、地上の事物に名を与え、それを所有することを人間に許してくれた。そうかといって"人間の頭上に舞う目に見えぬもの"を人間界に引き下ろす力まで与えてくれたわけではない。しかし、人間は、自然の言語と芸術の言語という神の2つの贈物によって"天上の事物"を理解出来てもよいだろう。ところが、実を言えば、これら2つの不思議な言語のうち前者は神によってしか話されることはないのであって、揺れる樹木や雷、渓谷や河、草原や岩場といったものを賛美するにしても、それが何であるかは我々には分からない。それゆえ、真理のこれら真正な証人に対して我々に出来るのは、ただ謙虚に崇拝することよりほかないのである。
ロマン派の中でも慎ましくも誠実なWackenroderらしい立派な見識ではないか。合掌し崇拝するというのも1つの解には違いない。だが、依然として問そのものは残っているのだ。

につづく

2009/01/13

正月三日の仙台東照宮


正月3日の朝である。3日ともなると見ての通り静かなもので、初詣の参拝者はわずかであった。元旦の淑気とはまた異なりこれはこれで趣というものか。





      独居や思ふ事なき三ヶ日  漱石