先日、近所の本屋に立ち寄ると新刊書の棚に池内紀が書いた関口存男の小さな評伝が並んでいた。懐かしい名前である。私は熱心な学習者ではなかったが、それでも“初等ドイツ語講座“であるとか“独作文教程“といった名著を眺め、“関口存男の生涯と業績“という箱入りの一冊も持つだけは持っているのである。物置を探せば、関口文法の色合いが濃厚に残っていた時代の“基礎ドイツ語:Mein Deutsch“も何冊か見つかるはずだ。
本の後書きによれば、関口存男生誕110年に当たる2004年に『現代思想』に連載したものを、今回一冊にまとめ直したものだそうだ。池内自身は生誕100年の際の1994年にもいくつか文章を書いていて、関口存男の未発表原稿の発掘や新しい評価など複数の記念出版があるものと秘かに期待していたらしいのだが、既存著作のまとまった復刊以外、他にそれらしいものはほとんどなかったようなのである。そこで、待っていても出ないのならばということもあり、遅ればせにオマージュを捧げることにしたらしい。
ドイツ語学の鬼才、法政時代の内田百閒らとの対立、未完に終わった畢生の大作『冠詞論』、関口文法の隆盛と没落など、改めて見ればいかにも奇人好きな池内紀好みの素材ではある。そんな池内の今回の指摘で思いがけなかったのはヴィトゲンシュタインとの類似だ。実践的語学の追究が言語哲学、認識論に突き抜けてしまったのである。両者とも言語の森に奥深く分け入り、深く分け入り過ぎて、もはや生還を期せない地点にまで踏み込んでしまった。ヴィトゲンシュタインはここに至り、畢竟沈黙する他ないことを結論としたが、関口存男は語り得ぬことがらが潜む地点に至ってなお決死の突貫をやめなかったらしい。それがもはや語り得ぬと知りつつ、それでもその幾重にも茨の絡まった身動きならぬ地点でしぶとくもがき続け、じりじりと匍匐前進を続けていく。勿論、これはそもそも勝つことの叶わぬ勝負であり、当然敗れ去る他はなく、困難を極める格闘と探究に彼の寿命はもう間に合わない。主著たる『冠詞論』は2千数百頁を費やしてなお完成せず、その後の計画も頓挫するのだが、実にその点において我々の心を揺するドラマは存するのである。その限界内において最善を尽くし、遂に敗れさるが、人間存在の内実としては勝利した者の悲劇である。
これはファウスト的な悲劇であり、ドラマとしては特に目新しいものではないだろう。しかし、悲劇の価値は新しさや珍しさにあるわけではない。むしろ、典型的•神話的な度合いが高ければ高いほど純然たる価値と力を持つものであろうが。彼は困難な探究の道半ば63歳で逝く。膨大な資料の山が遺された。もしまだもう少しの時があれば、関口存男は何処まで行けたのか、或いは行けなかったのか。
孫の関口一郎が癌で倒れることなく、まだ生きていたら、事態は変わっていただろうか。遺稿集や資料類はもっと出たかもしれない。だが、評価や研究となると新たなものが出てくる可能性はあまり高くはなさそうだ。言語哲学となった実践語学の研究である。ヴィトゲンシュタインやソシュール方面からの研究があるだろうか。言語哲学としても言語学としても、独自過ぎる、しかも未だ完成せざる体系を適切に扱える研究者が果たしているだろうか。或いはその気になる研究者が。
いい機会を得た。暫くぶりに読み直してみることにしよう。
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