2008/08/24

Horst Steinの思い出

もうすぐ今年のバイロイト音楽祭も幕を閉じるが、先月来中継放送が続いていて、音楽祭が開幕した7月25日の„Parsifal“から8月2日の
„Götterdämmerung“まで一通り今年の演目の初日の公演を楽しむことが出来た。昔はNHKのFMでチューニングを気にしながら夜中耳を凝らしたものだが、今はインターネット・ラジオになり、音もよく録音も容易くて随分と便利ではある。(バルトーク・ラジオなど320kbの配信で、CDを普通に取り込んだ時よりも音がいいくらいだ。)もちろん演奏や歌手の良し悪しはそれぞれだし、平準化したこの時代、そもそも昔に比べればということもあるにはあるが、中継放送恒例の開演5分前の3度吹かれるファンファーレが鳴って、劇場内のどよめきがざわざわと流れてくると、やはりわくわくするもので、これは変わらない。

そんな中、音楽祭開催間もない27日、かつてのバイロイトの常連、頼りになる名匠Horst Steinの訃報 が流れてきた。80歳ということだったが、ここ数年静養中ということ以外ほとんど消息を聞かず、実際は長いこと引退状態であったから、格別に驚きはしなかったのではあるけれども、ああ、とうとうかという感慨はあった。そして1度きりではあったが、直接聴いたBamberger Symphonikerとの来日公演を思い出したのである。

KochからRegerの渋い録音が何枚もリリースされ、Stein自身の70歳を記念したLiveのBrahms全集(Brahms: Die 4 Sinfonien)なども丁度出た頃で、Wandの次の「最後の巨匠」としてもてはやされる日も遠くないのではなどという声もちらほら聞かれた97年の秋のことである。この時はサントリー・ホールでのブラームス・チクルスを軸とした一連の公演だったのだが、当時私の住んでいた相模原にも足を伸ばしてやって来て、やはりブラームスの1番をやることになっていたのである。(他にはメンデルスゾーンの「静かな海と楽しい航海」とドボルザークのバイオリン協奏曲で、ソリストは諏訪内晶子であった。)相模大野のグリーン・ホールは伊勢丹に接してその隣にあり、音はデッドだが正に我が生活圏内のホールで、散歩がてら歩いても行けたので私と友人は喜んで出かけることにしたのである。(帰りの田園都市線の混雑を思うとサントリー・ホールはいつも気が重かった。)その頃既にSteinの体調があまり思わしくないことは風のうわさで耳にしてもいたが、CDも出ているし、やっても来るのだからと、その時は特に気にもしていなかった。

 さて、当日現れたSteinは意外なほどに小柄で(私はそれまで巨漢だとばかり思っていた)、例のおでここそ変わらないものの、病気のせいか以前TVで視ていた元気な頃より一回り以上も小さくなっていたことに驚かされた。元々動きが大きい方ではなかったが、意外にも弾力的で軽快だった指揮ぶりの方も、肩が丸まり体の前で肘の先だけを振る随分とこじんまりした、内省的・内向的なスタイルに変わってもいた。しかし演奏そのものは、オケともどもスケール感こそないが、その分滋味溢れる実にいい木綿や木質の手作りの味わいで、更にブラームスのフィナーレ終結部などでは本拠地での録音より一層盛り上がって地響きを立てるほどの凄まじい突進も見せてくれたのだが、演奏中否応なく気になったはStein自身の尋常ならざる顔色であった。初めに出て来た時から実にもう茹でだこのように真っ赤で、これはいったいどれほどの血圧なのであろうかと危ぶまれた。今にも卒中を起こすのではないかと見ていてひやひやしたのである。

休憩中、友人と私は(あれは子供の頃いじめられたかも知れんなあーなどと軽口を利いた後)今日来て本当によかったなあとどちらともなく口に出した。あのSteinの様子を見るにつけ、これが最後か限りなく最後に近い来日であろうことは明らかだったからである。そして休憩後のブラームスは殊のほか感動的であった。冒頭の深く沈潜しながらも衝き上げて来る激情、低回し打ち沈みながらも静謐で清らかさが流れる2楽章、3楽章は昔のように素朴で弾力的な推進力があって、フィナーレはアルペンホルンの朗々とした挨拶から感動的な例の弦楽合奏を経て思いがけぬ爆演となった。

あれから早11年である。Steinの来日は翌年単身でN響を振りに来たのが最後となった。残念ながら彼のWagnerの実演には触れられなかったが、私の手元には86年のバイロイトのMeistersinger(CD-R)がある。冥福を祈る。

2008/07/13

諦めぬ人 Gary Bertini

ケルン放送のシンフォニー・オーケストラと入れたMahler6番の明晰精妙な録音を聴いて以来Bertiniには関心を持っていたのだが、その実演に接したのは2回きりである。都響の音楽監督に就任して2.3年目の2000年から確か横浜と大宮で対になったMahlerチクルスが始まったのだったが、その内の横浜のみなとみらいで演奏されたチクルス最初の1番と5回目の5番を聴いたのである。かなり開きがあるが、どちらも休みの日のマチネーで、友人に誘われるまま休日気分で気楽に出かけた演奏会であった。2回共に当日券で入って席はあまりよくなかったのだが(1番の時はやや遠く、5番の時は指揮者を斜め前方から見る席であつた)、NHKホールほどではないにしてもみなとみらいのホールも実に鳴らないホールであった。その鳴らないホールで初めてBertiniの実演を観もし、聴きもしたわけであるが、「諦めね人Bertini」という強烈なイメージはこの時刻み込まれたものなのである。 そして今は亡きBertiniを想う時、特にチクルスがスタートした1番のコンサートのことがありありと思い浮かんでくる。都響は予想以上に酷かったが、小柄で精力的なマエストロには大いに感心したのだ。

当日出だしの印象は残念ながらよろしくなかった。開演時間になったのやらならないのやら、オケの連中は(在京のオケの唾棄すべきいつもの流儀で)いかにもルーチンといった様子で、だらだらぞろぞろとまとまりなく入ってくる。拍手を受けてそれに応えることもなく、各パートも揃わぬうちにてんでばらばらに座り始め、締まりなく、また何の疑いもなくこれまたてんでんにチューニングやらお喋りやらを始める。こんな入場では拍手など出来るものではない。鳴り始めた拍手は当然すぐに止んだ。いったい彼らは楽団としての舞台への登場をなんと心得ているのだろうか。

※対照的に入場が見事なのは旧東独のオケだ。Walter Wellerと来たDresdner Philharmonieなどは特に見事で今でもよく覚えている。時間になると舞台の両袖から順序よく揃って入って来る。拍手を受けながら整然と進み、全員が揃うと客席に向かって晴れ晴れと胸を張り、聴衆に敬意を表すると同時に自分たちに向けられた拍手に応えるのである。客席の拍手は自然に高まり、我々の心の中では演奏への期待も自ずと高まる。コンサート・マスターが誇らか且つにこやかに(また嬉しそうに)客席を一通り見渡した後、着席する。チューニングはその後に始まるのである。そのチューニングも馬鹿みたいにばらばらと締まりなく続けたりはしない。速やかに済ませると後は指揮者の登場を待つばかりとなって心地良い緊張感がみなぎるのである。これは後にGünther Herbigと来た時も同じで変わらなかった。そこに感じられるのは楽団としての自負と誇りだ。音楽家・芸術家としてオーケストラもソリストや指揮者と同じくその場に同様にすっくと立っているわけである。当然登場もそのようにあるべきだということなのであろう。この麗しきステージ・マナーはドレスデン・フィルに限らずStaatkapelle DresdenもGewandhausorchester Leipzigも立派に心得ていた。旧西独のオケはそれに準じるが、アメリカのオケはあまり構わず、日本のオケ、特に在京のオケとなると悲しいかなこの麗しきマナーのマの字も感じられぬことが多い。しら~っと入って来て後はそのまま、指揮者が入って来るまで楽団としてまともに聴衆に向き合うことがない。これは私などには大変な心得違いに思えるのだが、どうだろうか。定期であるとかそういったことではなく、基本的な考え方の違いなのか、誇り無く、挨拶無く、実にいまいましい限りだ。

 閑話休題。というわけで、全く期待が持てぬばかりか怒りすら覚えるオケの団員の(いつもの)入場ぶりを見ながら、鳴らないホールで鳴らないオケが、湿度の高い鳴らない季節に、いくら編成は大きくてもR. StraussのようではないMahlerをやるわけであるから、これは相当きつかろうなあ…と思っていると、案の定であった。

いざ始まってもそもそも音としてあまりに貧弱で、感覚にも感情にも、頭にも魂にも訴えかけるものをまるで持ち合わせぬ有り様、弦は鳴らず木管は鳴らず、金管と打楽器が鳴るばかりという具合であった。いつ温まるかと待ったが、楽章が進んでも事態はほとんど変わらず、これでは解釈も味わいもあったものではない。疲れを知らぬ棒捌きで指揮をとり続けるBertiniもこれでは大変だと隣の友人と顔を見合わせたのものである。

ところがである、普通ならもう半分諦めて、鳴らぬなら鳴らぬままでそこそこそつなく終わらせて、それでおしまいとでもしてしまいそうなところを、何とBertiniは諦めるどころかますますエネルギッシュに振り続けるのである。それも叱咤激励するとか檄を飛ばすという風ではなく、オケが絶望的に鳴らぬことなどまるで知りもしないように平然と、あたかもとてつもなく素晴らしい演奏が繰り広げられているかのようにますます精力的に振りに振るのである。

すると何としたことか、Bertiniの熱とエネルギーに煽られて、こと終楽章に至って遂にオケも熱く鳴るようになってきたのである。 我々は驚いてまた顔を見合わせた。この時Bertiniはいかにも動きやすそうな黒い詰め襟風の上っぱりのようにも見える上着を着ていたのだが、見ているとこの70歳を越えた小柄な熱血漢はフィナーレになって文字通り何度も勢い良く飛び上がったものだ。同じ飛び上がると言ってもBernsteinとはまるで違い、動きは機敏で切れがあり、着地も着地後の動作も至極見事で、まるで旧ソ連のオリンピック体操選手のようであった。何回かの目の覚めるようなジャンプと着地があり、そうしてとうとうフィナーレは見事「熱演」と言っていいものとなったのである。客席からブラボーが飛び交ったのは無論である。私と友人も勿論盛んに拍手をした。

我々は感服、感嘆していた。我々の今目の前にいるのは単なる老巨匠・名匠ではない。百戦錬磨の戦闘指揮官でありバイタリティの塊であった。あれほど救いようもなく鳴らなかったオケを発奮させ、ホールにもMahlerにもBertiniにもまだ十分慣れておらぬために、せっかくのチクルスのスタートがつまらぬ凡演に陥りかけようとしていた絶望的な流れを不屈の意志と力業で押し戻し、遂に見事な手綱さばきで曲がりなりにも聴衆受けする熱演にまで持っていったのである。実に尋常ならざるパワーであった。

この「熱演」は、しかし無論「名演」というのでは全然なかった。内容の凄絶さであるとか意味の深いえぐりであるとか飛翔するイマジネーションであるとか全人的な音楽体験であるとか、オケの理解や力量無しには実現し得ない領域には一歩も踏み込んではいなかったのだが、そんなことはBertini自身が誰よりもよく知っているようであった。拍手喝采に応えるBertiniは、汗を拭くタオルを肩に掛けピョンと指揮台に飛び乗って、表彰式のメダリストが観衆に応えて手を振るように大きく手を振って聴衆の歓呼に応えていたのである。その様子は難度の高い技を決め予定通り高得点をもぎ取った体操選手の爽快さを想わせた。指揮台の手すりに左手でつかまり、半ば伸びあがりさえしながら、高々と挙げた右手を腕ごと大きく振る、白いタオルを肩に掛けた笑顔のBertiniは、どう見ても芸術的成果を実感して喜ぶ内省の芸術家ではなく、厳しい状況下での困難と思われた仕事を力強い采配と不屈のプロ魂で見事にし遂げた現場監督・戦闘指揮官であった。Bertiniに別な面がないはずもないが、その時我々目の前にいて歓声に応えていたのは、必ずあるレベル以上の成功を確実に請け負う仕事人、本物のプロフェッショナルであった。

そう思った時、私は確信した。ケルンの放送オケのシェフに就任した時「十年の内にこのオケをベルリン・フィルを追い越すまでにしてみせる」と言ったBertiniがここにいると。


「いやあ、人間、簡単に諦めてはならんなあ」と言いながら友人と私はホールを後にし、そのままビア・ホールに立ち寄った。

「いやあ、それにしても、人間、やっぱり簡単に諦めてはならんなあ」と言いながら我々は「諦めね人Bertini」に乾杯したわけであった。

2008/07/09

透徹とは何か?: WandとNDR Sinfonieorchester


ヨーロッパ音楽芸術の現代における一つの到達点を見せてくれたものとして最も強く印象に残っているのは、何と言っても2000年の11月に来たGünter WandとNDR Sinfonieorchesterであった。Schubertの8番とBrucknerの9番という芸術的には完成された未完成を2曲合わせた此岸から彼岸を目指す円環のようなプログラムで、この時はWand自身HamburgやMünchenでも集中的に取り上げて満を持しての来日公演だったが、高齢のWandが長時間のフライトに耐えて本当に来られるのかどうかは直前まで危ぶまれてもいた。(許光俊など一部の音楽評論家は世界の至宝の命を削らせてはならないと来日反対の要請をしたとも聞いた。)そんな心配はあったものの、共に加減を知らぬコンビである友人と私は3日ある公演の全てを予約し、結局のところ(適当な理由を付けて仕事も休み)初台まで3日間通って、なかなか得られぬ(最早不可能であるかもしれぬ)音楽体験を持つことが出来たのである。

Wandを待つ会場の雰囲気も特別だったが、その演奏も単なる巨匠の名演奏というのとは次元が異なる一つの究極的なものであった。楽団長に付き添われた登場の際の足取りこそ少々危うげだったが、指揮台に立ったWandは眼光の鋭い鶴のようで、吸い込まれるようなホールの真空状態から未完成の第1音が立ち現れ、流れ出した瞬間、今これから聴こうとしている演奏がとてつもないものであるということが否応もなく了解されたのである。「透徹」というものが世にあるとすればこれこそがそれであった。軽すぎも重すぎもせず、一点の曇りも濁りもなく、適正としか言いようのないバランスで力みなく奏された低弦は、純度の高い水がすーっとどこまでもしみとおってくる様であった。研ぎ澄まされていながら神経質にならず、完全にコントロールされていながら人為性の気配が微塵もない。一言で言えば既にして「彼岸」に通ずる音が奏でられていたのである。見ているとWandの普通ならとても見えないような文字通り小指1本のごく小さな動きにもオーケストラは正確に反応していた。(我々は3日ともほとんど同じような1階やや左寄りの11列とか17列とかに座っていた。)Wandが当然行ったであろう厳しい練習を経て、両者の間には感覚と呼吸の共感とでもいうものが起きていると思われた。徹底的に突き詰められた結果、そこにはEugen Herrigelの見た弓道の名人にも通ずる名人・達人の技が生じているようでもあった。


終演後、我々はみな自ずから立ち上がって拍手を送った。後日、CDを買ったらブックレットには客席の様子もあり、私と友人も写っていた。画像の左1/4やや上方に男二人並んで感動の面持ちで放心しているのが我々である。思いがけぬ記念になったなぁと後で話したものである。

2008/07/05

バーニャのパンの店主の一言で考えさせられたこと

今年は入梅も遅く、しかも空梅雨のようでもあり、梅雨らしい雨を経験しないまま真夏を迎えそうな気配である。そんな中ふと一昨年の雨の日の出来事を思い出した。雨の中思い立って、こともあろうか傘を差して自転車でバーニャのパンを買いに行ったのだが、店主とのやり取りが少々面白かったので記憶に残っているのである。

一昨年はなかなか明けぬ梅雨で(梅雨明けは8月になった)、その日も激しいというわけではなかったが、それでも腿やら腕やら背中やら(特に腿がひどい)物好きな自転車乗りが濡れるには十分な降りであった。店の横の駐車スペース(置いて3台分だろう)には花が植えられていて普段から庭のようなのであるが、その日は朝からのたっぷりすぎる雨で緑は熱帯雨林的な怪しさを発していた。



さて、その隅に自転車を駐めて、(バサバサと)傘の雫を振り落とし(ブルブルと犬のように)体の雫を掃って、哀れな濡れ鼠の体で店に入ると、昼近くではあったがさすがに客は一人もおらず、奥ではあの店主がパンを焼いている最中だった。

焼きあがったパンのにおいの中、私は豊かな気分で一人ゆっくりとパンを選び(普段食べるライ麦パンはこの間買ったばかりだったから、この日はバーニャお得意のやけに重量感のあるイチジクのパンと後2つばかり小さいのを選んで)「よく降りますね」と差し出した。その時の店主の答えが予想外のものであったのである。

「よく降りますね。」

「すばらしい。」

「ん?」

「すばらしい雨です。」

 


言われてみれば静かな店内から見る外の雨はタルコフスキー的とも言えた。濡れ鼠の客を特にからかう風もなく、おそらくは朝早くから生地をこねたりパンを焼いたりして奥の工房から店のガラス戸の向こうに降る雨を見ていたであろう店主は、そのよく降る雨を、降り込められて静かなその店内でどうやら楽しんでいたらしいのである。蕎麦打ち職人がその違いを言うようにパン職人にとっても雨の日は生地の作りようからパンの焼きようまで当然変わってくることであろう。確かに雨ならばその雨をあるがままに受け容れなければその日のパンは焼けまい。そのことが店主にそう言わせたものと思われたのだが、どうもそれだけではなかった。

小さな店で、自分の信じる好きなパンしか焼かないと思われる店主は「よく降りますね。」「いや、全く。こんなに降るといやになりますね。」とか「早く梅雨が明けて欲しいものですね。」といったお定まりの会話を私の前で見事に断ち切ってみせたのであった。暗黙のうちに自動的に決められた科白を何の考えもなく惰性でなぞってみせることは「会話」ではない。そのベルトコンベア式の自動装置を止められて私は確かにはっとしたのである。

店主(ニヤリとして) 「すばらしい雨です。」

私(ハッとして) 「なるほど。いや、どうせ降るならこれぐらい降ったほうがね。」

店主(いつも通り) 「では、お気をつけて。」

私(ハッとしたまま) 「どうもありがとう。それじゃあ。」

「その思想が行動になるのでなければ『思想』の名に値しない」とは学生時代よく恩師(中年になるまでMünchenにいて、スコラ哲学とユング心理学を研究していた。帰国後も毎年紀要論文を最低1つ書くことを自分に課していた)が口にしていた言葉である。当時私はそれを当然だと思い、我が思想と行動の一致(実はただの気ままな趣味)を暢気に威張っていたのだが、それは実に愚かな楽観であった。実際今になってみれば当時懸命に学んだつもりで我が「思想」と信じ、そう称していたもののいくらも我が「行動」になっていないことが分かるのである。(実際の生活の中では、その指針にすらなっていないかもしれない。"アレテイヤ"も"IronieとHumor"も"Trotzdemの精神"も普段の生活者としての私に対してほとんど無力である。)。逆に言えば、幼少時からほとんど意識することなく習慣的に身に付けてきた行動や思考や感情のパターン、無反省の振る舞いや反応に過ぎないものが我が「思想」の正体というわけであった。(つまりそれは思想ではなかった。私はついに思想を学ばなかった。)

戦前仙台で教えたKarl Löwith が日本人の精神生活を評して、日本人は二階家に住んでいるようなもので、二階は西洋でも一階は完全に日本のままで変わらない(つまりいくら学んでも思想が行動にならない)ことを指摘した。これは「和魂洋才」というような立派なものではなさそうだ。「世間」や「つきあい」や「日々の暮らし」の前に思想があっけなく敗れているさまである。そしてどうやらそれはそのまま私のさま(「ざま」と言った方がよいか)なのである。これは嘆かわしい。

それで結局哀れなばか者のままで、以前と比べてまるで賢くはなっておらぬとFaustのように嘆いてみることでもできればまだしもだが、FaustどころかWagnerほども勉強していない自分を振り返ると正直なところ格好のつけようもない。パン屋の店主の一言から我が思想の敗北が浮かび上がってしまったのである。



2008/06/02

音楽に国境はない?

寡聞にしてそもそも誰がどんな意図で、またどんな文脈で言い始めたのかは知らぬが「音楽に国境はない」とは昔よく聞いた科白である。かつてはスローガンとしての意味も持っていたに違いない多分に理想主義的な文脈で言われた気配のこの言葉だか、今ではほとんど聞くこともない。聞くにしても番組中使われるアナウンサーの紋切り型か芸術的には無責任な政治的発言ぐらいのもので、すっかり形骸化した様子だ。そしてそれもやむを得まいと思う。残念に思う向きも一部にはあろうが現に事実に反しているのだから。Alban Berg QuartettのGünter Pichlerが音楽的伝統が異なる国の音楽家とはツーカーではいかず、少なからぬ違和感を感じることがあるという旨の発言をして少しばかり話題になったこともあったが、単なる一音楽愛好家の目(耳)からしても(或いは愛好家であればこそ)厳然として「国境」は存在するのである。

90年代も後半に入った頃からだったか、音楽は決して世界共通、単一の普遍的言語などではなく、特にクラシック音楽なぞはヨーロッパ・ローカルのローカル臭ふんぷんたる物だということをきちんと述べる批評家が目に留まり始めた。日本のオケのつまらなさに辟易し、アメリカのオケの無内容さにうんざりしていた我々は(「我々」というのは当時ともにコンサート通いやレコード店での外盤あさりを繰り返していた友人と私のことだが)「おっ」と思ったものである。許光俊や鈴木淳史、平林直哉などの、それまでの西洋音楽の教養主義的受容の伝統から離脱した、歯に衣着せぬ(しばしば痛快で、時に身も蓋もない)批評家達であったが、彼らの指摘は我々の常日頃の実感に即していた。

つまらなさや無内容さの原因がヨーロッパ・ローカルの意味の体系や固有の理屈を承知していないことにあることは明らかだった。ワインやビールがその土地に深く根差しているように、クラシック音楽もヨーロッパというものに深く根差しており、そのアウラや味わい、ニュアンスの多くはヨーロッパ固有のローカル性に深く依存していて切り離すことが出来ないのだろう。そこから離れた演奏にはネイティブとはどうしても異なる外国人の発音・発話のような借り物感や違和感が常に付きまとう。外国語を母国語レベルで身に付けることが難しいように、固有の音楽言語をネイティブレベルに習得するのも矢張り困難なようだ。母語という第一言語習得と外国語である第ニ言語習得の関係と同様の問題が同じく存在するのだろう。原語ではなく翻訳文の朗読を聴かされているような演奏を聴くたびにもどかしさを覚え、本物はここにはなく、別のところにあるという感覚が付きまとって離れないのである。そして、純然たる我々愛好家は職業的必要に迫られているわけではないのだから、当然わざわざ違和感や不自然さを押してまで聴こうとは思わないということになる。趣味として聴くのに遠慮は無用である。

さて、ローカルなものをローカルなものだと言うのは当たり前と言えば全く当たり前の指摘なのだが、それまでのクラシック受容では必ずしもそれが当たり前とはされていなかった。今は昔、かつてクラシック音楽は奉られており、多様な世界の中であまた存在する在り方の1つにしか過ぎぬものとして相対化されることは稀であった。一段も二段も上等なものとして考えられ、教養主義が生きていた時代にあっては、単純な本場崇拝と同時にクラシックがクラシックであるという理由だけで普遍的なものだと信じられていた気配ですらあった。楽譜は言語の呪縛から解放されて いる筈であって、楽譜通りに追究していけば言語と文化の差異を越えて、誰しもが最終的には人類共通のスタンダードにたどり着くことが出来るという素朴な信念すら生まれていたようなのだ。西欧音楽の伝統からすれば全くの周辺・辺境地域である日本で、その音楽を学ぶ当事者たちにしてみれば、そこに切実で悲壮な希望もあったに違いないが(戦前の官費留学生の夢や斉藤メソッドなどその代表だと思う)、本来ヨーロッパ・ローカルなものをユニヴァーサルなものだと考えたのはやはり誤解には違いないのである。そもそも多様な差異を塗りつぶして目指される普遍的なものが面白いか。

誤解は当のヨーロッパ自身がかつてそう誤解していたから生じたのでもあろう。かつて普遍を夢見たヨーロッパも、没落の時を経てさすがにもう大時代的なことを信じることは出来はしない。かつての普遍の夢はEU規模に縮小され、今や彼らは逆にヨーロッパ・クラシックが滅び去ることを心配せざるを得ないようですらある。押し寄せるグローバル化の波、減り続けるクラシック愛好者層、薄れゆく古き良きヨーロッパ性etc. もっとも、そんな危機意識の中では再びヨーロッパ人たる自分たちのローカル性について新たな自覚も生じたようで、それがまた別の刺激的な演奏を生み出しているのは頼もしいことではある。巨匠や名人が消えてスケールは小さくなったし、古き良き時代の品格や本物の味の濃さは望むべくもないが、それでもヨーロッパの完成期とも言えるバロックから古典期の作品が、この頃また楽しく聴けるようになってきたのは今だからこそではあろう。相対化されたヨーロッパ精神についての自己観察から生まれ出た、思いがけず自由な、今の身の丈にあったヨーロッパの愉悦が聞ける。たとえそこに常にパロディの臭いが付きまとうにしてもである。

一方、文学部上がりの我々の方はと言えば、言語の壁を乗り越えることの困難は身をもって体験していたし、作品のまともな解釈と究明はその言語・文化圏固有の意味や価値の体系、思考と感覚のスタイルについての十二分な理解なしにはありえないこともよく知っていたので、文学作品に限らず絵画であれ音楽であれ意味を担う記号に拠って立つ作品は文化的特性とその差異の下に味わうのが当然だと心得ていた。だから演奏についても謂わばその土地の郷土料理を味わうつもりでいたわけである。一流のシェフの腕によって蘇る本格郷土料理のローカルな味わいこそが鑑賞の醍醐味の重要な部分であると考えていたのである。その文化圏にしか有り得ないローカルな味わいが濃ければ濃いほど、またその文化的特性、時代的特性が現れていればいるほど聴き応えがあったし、逆に抽象化されて万人の口に合うように口当たりよく調製された演奏は味気なく思われたのである。つまるところ我々にとってはローカルな味わいの裏付けを持たないクラシック音楽なぞはファミレスの料理、機械握りの寿司、大量生産のパン、プロセス・チーズ、インスタント・コーヒー、缶詰、ビールならぬ発泡酒に過ぎず、ないよりはまし(?)だが、うまい本物と比べることは到底出来ないものであった。

そして問題はオーケストラである。ソロの演奏家ならその天才を聴けばいいのだから、スタイルが正統であれ異端であれ、本格派であれ変則派であれ(ずば抜けてさえいれば)さして構わないのだが、オーケストラとなるとそうはいかない。複雑な文化的産物たるヨーロッパ音楽のその根本的な話法やスタイルに対する理解が楽団員に共有され、一個の楽団として統一された様式で奏でることが出来なければ、ちぐはぐで聴いていられないことになる。また、世の中に分かっている人間と分かっていない人間がいるように、分かっているオーケストラと分かっていないオーケストラがあって、分かっていない場合も聴くに堪えない。


日本のオーケストラがつまらないのは前者に因るところが大きい。アイドル・タレントが本格時代劇に出たように一生懸命やっても発声、立ち居振る舞い、台詞回しなどが様にならぬのである。あるべき文化的理解の心棒が体の中にないために形をなぞっているだけの感じが付きまとう。作曲家が問題とした問題の核心を自身の内から出た物とすることが出来ず、むんずとつかむべき内容が遠慮がちな指の隙間から抜け落ちていく。借り物の感じがしないで済むのは武満や大河ドラマのテーマ曲くらいか。

一方、アメリカの大概のオケは後者だ。自信満々だが別のことを大声で話していて、根本的なところが微妙に、あるいはまるっきりずれていても平気なようである。ハリウットやディズニー流の分かりやすい紋切り型が大好きで、味付けが一つきりになりやすい。ロマンチックならロマンチック、ダイナミックならダイナミック、古典に必要な精妙なニュアンスとは無縁である。音の恰幅はいいし見掛けは立派なのだが、全ては万人好みに単純化され中身が絶望的に陳腐なのである。スター・ウォーズやインディー・ジョーンズならいいと思うが、彼らで古典を聴くことは難しい。( SawallischがPhiladelphiaを振ってMozartを演奏した時、実にいい音だったが、全くつまらなかった。弦は機械的に刻むだけで、そこに意味というものが乗っていない。ソロはうまいがうまいだけ。ト短調の悲哀も疾走もなく、ただアメリカのメジャー・オケの名に恥じない立派な音が鳴っていただけであった。彼らは何のために演奏しているのか、ただアメリカの聴衆にイメージ通りの名曲を聴かせるためか。Sawallischのドイツ精神もアメリカのオケに意味をもたらすほど強くはなかったのである。)

 逆に、分かっているオーケストラが心を込めると全てがまるで違ってくる。一音一音がつぼにはまり、細部から全体に至るまでそうでしかあり得ないという絶対的な印象をもたらす。あらゆる部分が存在価値と意味を強力に放射してくるのである。Sächsische Staatskapelle DresdenがアンコールでRienziの序曲をやった時、それは完全にオーケストラの血肉となっており、その有無を言わさぬ説得力に惚れ惚れさせられたものである。指揮者とは別に、分かっているオケがそのままその力を見せるとどうなるのか、実に思い知らされた感じであった。

歌舞伎が日本のものであるように、クラシックはヨーロッパのものである。要するにそういうことだ。それぞれ威張る話ではなく、事実としてそうなのである。

2008/05/29

趣味のAudio


今の時代「ご趣味は?」と面と向かって尋ねてくる人もいないが、万一尋ねられた時のために「オーディオ」というのも応えの1つとして用意している。我がオーディオ遍歴も20数年に及んで、かつての神奈川時代を過激な疾風怒涛時代とすれば、今は落ち着いてまずまずの収穫を楽しめる古典期に至ったようでもある。もっとも、この平穏がいつまで続くかは心もとない。

趣味のオーディオの恐ろしいのは「際限がない」ところである。その人間の欲望の際限のなさに比例して、「これでいい」という終着点は遠のくばかりという仕組みになっている。極端なことを言えば「朝満足していても夕には更なる欲がわいて来る」という具合で、「朝聞道、夕死可矣」という孔子の心情には遥かに遠いと言わざるを得ない。

新たな欲がわいて来た時にどうするか。大抵の愛好家はそこで折り合いをつけることはまず出来ない。つまり、何かせずにはいられなくなって次のうちのどれかをする。

1.セッティングを変える。

2.アクセサリー類で調整する。

3.ケーブルその他周辺装置を変える。

4.機器本体を変える。

5.電源環境を強化する。

6.部屋の音響環境を整える。

7.家を改築する。

いずれにせよ何らかのことをするのであるが、その都度機器・装置類を取っ換え引っ換えしていたのでは、いかんせんきりがない。ショップの視聴室ならばいざ知らず、暮らしの中のホーム・オーディオとしては実際的でないし家族の顰蹙を買うことも避けねばならない。となれば、何とかいい策を考えねばならない。

先ずは土台とするに足る基本機器を中心に据え、据えたならば後は(あまり)迷わず、電源、土台、信号経路等オーディオの優先順位に従って発展的・段階的に積み上げてマイ・オーディオを完成させていくというのが賢明な方法となる。その過程で目指す音の方向性を崩さぬように基本機器をモディファイ或いはアップ・グレードする。最初の基本機器の選定は慎重に行わねばならないが、後は余裕を持って計画的にオーディオ・ライフを送っていくことが出来る(?)というわけである。(この際「オーディオ」という趣味が「賢明」なものであるかどうかはおいておく。)

しかしながら、この賢明なる方針に従うにしても問題がないわけではない。オーディオの世界では平地の健康な世界に比して金額の単位が1桁違う。Thomas Mannの『魔の山』"Der Zauberberg"では、有閑療養患者たちが集う国際サナトリウムBerghofで「数え得る時間の最小単位は1ヶ月」(Unsere kleinste Zeiteinheit ist der Monat.)だと皮肉られていたが(2週間や3週間は物の数に入らない)、オーディオの山でも「万」が最小単位である。今でこそほぼ平熱まで下がり(?)罪のない顔をして澄ましている私も、かつて立派に体温があった10数年間は、オーディオを趣味とせぬ健常な人々が考えるより常に1,2桁上の投資をし、それにすっかり慣れていた。今でも時々発作を起こし、やおらインシュレーターを変えボードを交換し、真空管や種々の端子を磨きだし、さては電源部をいじったり、果ては種々怪しげなグッズを試したりと、いまだ快癒の診断には遠い。

オーディオに何を求めるかと問われたら何と応えよう。昔NHKの水曜時代劇「宮本武蔵」で役所広司演ずる、まだ迷いと惑い中にある宮本武蔵は、それゆえ訪ねた柳生の里で、西村晃が凛とした気合いで演ずる柳生石舟斎の

「武蔵、己の剣とは?」

との問に、確信はないがそれを悟られまいと

「されば、電光石火」

と詰まりながらも言い放った。

私ならば

「されば、原音再生」

「されば、リアリティー」

「されば、コンサート・ホール最上席」

「されば、息遣い」

「されば、Passion」

「されば、....」

ちなみに、武蔵に問い返された (「では、老師の剣とは?」)

石舟斎の応えは、

 「春風の如し」

であった。

2008/05/28

バーニャのパン "pan bagnat"

柏木にある「バーニャのパン」("pan bagnat")はごく小さなパン屋で、売り場そのものは一坪ほどしかない。客が二人入ればきつく、三人入ればぎゅうぎゅうである。一方通行路の狭い道に面して、店の開く朝 8時から品切れになる夕方まで、常連客やら贔屓筋やら或いは評判を聞きつけたパン好きなどでそれなりににぎわいながらも素朴で不器用なたたずまいを見せている。よって立つ理念はフランスの(下町の)街角のパン屋のようで、残念ながら正統ドイツ・パンではないのだが、うちの菩提寺に近いこともあるし、小麦全粒粉なり高濃度のライ麦パンを数種類選べることが貴重且つ稀少ということもあって、仙台に戻ってきて以来、私もちょくちょく利用している。

「パリジャンのパンではない」
狭い店内には洗練というのには程遠い素朴で不細工な、それでいて実にうまそうなパンが所狭しと並んでいる。それらはごつごつしたジャガイモのように美しいが、スマートさとはまるで縁がない。それはもう実に素人じみて見えるほどである。粉や水や塩や酵母やバターや窯や火といった素材そのものをストレートに感じさせるパンは、どれもこれも密度が高く重量感があって(一部のパンなどもし投げて当たったら確実に昏倒するだろう)、普通はパリパリ、サクサクで軽やかであるはずのクロワッサンですら文字通り持ち重りがするのである。まるで薪の石窯で焼いたかのようなバケットもどちらかと言えば森の木のように硬くしまっていて、焼き色も「黒い」。見た目はお世辞にもいいとは言えなかろう。それらはまるで森の木や薪の枝のようで、ふくよかだがよくしまってはちきれんばかりになっている格好のいい健康なお嬢さんの黄金色の二の腕ではない。これはおしゃれなパリジャン、パリジェンヌのパンではない。言ってみれば、ミレーの農夫が食べるパンなのである。しかしこれはこれで確かに魅力である。というより、それが魅力なのだ。



「ヘーゼルナッツの匂い」
しかしそれだけではない。バーニャのパンにはもう一つ、素朴な力強さ以外に人を捉えてはなさない要素がある。それは「匂い」である。比喩ではなく、どのパンにも他のどこでもかぐことの出来ない(少なくとも私はかいだことがない)匂いがあるのだ。バーニャのパンならではの匂い。窯くささとでも言おうか、素朴というのとはちょっと違う、変に癖になるそそるような匂いである。バターをまるで使わないパンにも(例えばバケットやライ麦パンにも)やや甘い焼けたバターのような、そして私の好きなヘーゼルナッツのような匂いが香ばしくもしめやかに乗っていて、最初私はてっきり窯の匂いが移っているのだろうと思っていた。幾種類ものパンを(バターを多く含んだものも100%のライ麦パンも)次から次へ同じ窯で焼き続けるために全ての匂いが混ざり合って、それが乗るようになったのであろうと推測していたのである。少なからぬパンにその当のパンのものではないと思われるこげが付いていることなどもあって、なおさらそうであろうと思っていた。ところがそうではなかったのである。

「窯の匂いではなかった」
この持った手ばかりか服や髪に移るほどのバーニャならではの匂いは、純粋にライ麦パンの風味を味わおうとする者には少々邪魔にはなるものだ。小麦パンなら問題ではないのだが、ライ麦パンとなるとライ麦本来の風味が損なわれるところがないわけではない。使っている粉の挽き様や配合、種も通常よく使われている酸味の強いサワー種ではないらしいことなどの影響も大きいと思うのだが、高純度のライ麦パンであるにもかかわらずライ麦好きにはライ麦らしさが十分ではない。あの魅力的な匂いにライ麦本来の香りが覆い隠されているという感じだろうか。だから、同じパンでも挽きたてライ麦の爽やかな酸味と渋みが香り立つ正統ドイツ・パンに比べることは実のところ出来ないのではあるけれども、しかし食べつけるにつれていつの間にかそれはそれで奇妙に癖になってくるものなのである。中毒性があるとでも言おうか。それが気になっていたので、あるとき店主に訊いてみたのである。

「この独特の風味は窯の匂いですか?」と私。

「いえ、酵母の匂いです。」と店主。
(まだ30代であろうか。禁欲的な職人という感じではないが、強力な探究心と背後の世界を感じさせる主人だ。)

「酵母の。」

「うちでは水と粉だけで酵母を起こしているんです。それを熟成させていくうちに酵母がもろ味のようになってきて、ハシバミのような独特の風味が出てくるんです。酵母を葡萄汁のような果汁で起こすこともよく行われていますが、果汁だと熟成を進めてもすっぱくなりすぎてあまりよくないのです。」

「なるほど、そうだったのですか。いや、ありがとう。」

そういうことだったのである。独特の風味の正体は水と粉(小麦全粒粉だろうか)だけで起こされた自家製酵母の風味だったのである。ほとんど全てのパンにその風味があるのはその酵母が使われているからというわけであった。「ハシバミ」といえば、つまりヘーゼルナッツである。あの妙に癖になるヘーゼルナッツのような(そして確かにもろ味のようでもある)風味の正体が分かって、私は妙に得心した。(もっとも「全て」ではないようだ。バケットにも2種類あって一方のフランス産小麦で焼いているものなどにはこの匂いがなかったようだが。)

「しかしそれでいい」
継ぎ足し継ぎ足されて熟成が進むうなぎ屋のたれのように、長く大切に熟成が進められてきた酵母にはやはりその場限りのものにはない味わいと魅力と力と癖があって、それゆえにそれがわれわれを強く惹きつけるのだろう。そしてその強力な武器である小麦天然自家製酵母が、その本質が強力であるだけにライ麦パンもその色に染め上げてしまい、結果いささかの違和感を感じさせるのでもあろう。そしてそれが正統ドイツ・パン好きに物足りぬ感じを引き起こさざるを得ないのでもあろう。(物足りぬものついでにもう一つ言えばクリスマス・シーズン以外にも出ているバーニャの「シュトレン」もおよそシュトレンらしからぬ軽さでまるでガレットか普通の焼き菓子のようである。正統シュトレンに比して非常に安く、これはこれでうまいのだが、発泡酒がビールでないようにあれはシュトレンとは言えなかろう。)

しかしながら、それでいい。バーニャはドイツ・パンの店ではないし、そもそもそれを目指してもいなかろうから。あの強烈に個性的な力強いパンがごろごろと並ぶうまいパン屋が買いに行こうと思ったら買いに行ける距離にあるという幸運を思うべきであろう。(ここしばらく行っていないのだが)買いに行こうと考えただけで豊かな気持ちになれる店というのはそうたくさんあるものではない。もしもなくなってしまったらひどく寂しい気持ちがするだろうことは確かである。


s.バーニャのパン "Pain bagnat" 再び (2009/01/30)