2010/08/29

Handyの入力


携帯でストレス無くものを書くには何より打ちやすさが大切だが、これには指のポジションを保証する本体の持ち方というものが重要になってくる。先日携帯をHTCのDesireにしていろいろ便利に使っているのだが、書く作業では正直やや苦戦していた。どうにも平面的なバーチャルキーボードに慣れず、暫くは画面を見ながら人差し指一本の片手打ちをしていたのだが、これではさすがに遅すぎた。前のNokiaのN95時代は物理キーボードで両親指打ちをしていて、まずまずの速さなのであった。それより遅いのはよろしくない。それで何とかしてみることにしたのである。

まず片手打ちを止めてQWERTYで両手親指入力を試みてみた。やってみると悪くはないのだが、問題もあった。普通に持って打っていると指が寝て親指の腹が広く画面に当たってしまうのだが、すると画面上のアルファベットの区切り枠を越えて隣を押してしまうことが増えるのである。親指2本で打ち込み速度は2倍になったが、誤入力も倍増してしまった。戻って直すのも度々になると煩わしく、これまた何とかするべきであった。

何とかすると言っても、指の腹の感覚を研ぎ澄まして、見事に打ち分けていくというのはあまり現実的ではない。腹で打っている限り打ち間違いは減らないだろう。指の腹はダメだ。ならば指先しかあるまい。ともかく親指の腹ではなく、指先で画面のポイントポイントに触れるようにする必要がある。指先で打つには、指が立っていなければなるまい。2本の親指先がそれぞれ画面上空から正しく下の標的ポイントを打つという感じにする必要があろう。

つまり、上から打ってやる必要があるのだ。指を寝かせぬため、本体の持ち方を変えてみることにした。親指を立てて画面までの距離を確保するには本体を包みこむように立体的に持たなければならない。人差指、中指で本体を下面から支え、薬指は曲げてその第2関節部分で本体下部を両脇から挟むようにする。これで親指が自由になる。

さて、どうだ?試してみると、悪くない。と言うより、良いようだ。これはなかなかに打ちやすい。

それ以来、このように打っている。結局、かなり打ち間違いを減らすことができた。


速さという点で言えば片手でフリック入力というのもありだとは思うが、アルファベットの切り替えなどどうも違和感があってしっくり来ない。どちらも慣れと言えば慣れなのだが、汎用性の高いQWERTYを使いたい。
Published with Blogger-droid v1.5.5.2

2010/08/22

文庫のGoethe



Goetheの自然科学論文集が筑摩の学芸文庫五冊分として出ている。色彩論一冊の他に形態学論集として植物編と動物編が、また地質学論集として鉱物編と気象編と三分野が上智の木村直司によって翻訳、編集されているものだ。この間、気象編の五冊目が出て完結したらしい。文庫のシリーズとして足掛け何年になるのか、同じ学芸文庫だが色彩論は通常の白表紙で残りは自然科学シリーズの青表紙版である。色彩論以外の四冊は一年余りの間に続けざまであった。こんな時代によくまとめて出してくれたものだ。色彩論こそ岩波の復刻で菊池栄一訳が手に入るとはいえ、後のものは全集くらいで、しかもその一部が読めるだけではないだろうか。その全集だとて、人文書院版は自然科学論文自体が少なかったし、そもそもとうに絶版であろう。潮の方には結構入っていたと思うが、こちらもカタログに残っているかどうか。何れにせよまとまったものを文庫で手軽に揃えて読めるというのはいい。文庫本ならそれを持ち、実践の人Goetheに倣って戸外に飛び出してみてもいいのだ。


※Blogger-droidというBloggerへのアップロードアプリを試している。打込画面と入力の変換候補部分ががきちんと分けられているのはいい。結構いいかもしれない。
Published with Blogger-droid

2010/05/30

Android携帯の購入とPCの検討

性能の限界を感じることが多くなり、思わず「クソッ!」などと口を衝いて出ることもしばしばとなるに及んで、PCと携帯のうちから先ずは携帯を新しくした。アンドロイドフォンであるHTCのDesireである。ソフトバンクから出ると聞いて4/9に予約し、4/27の発売日に手に入れた。




『ウェブ進化論』以来Google贔屓だから新型iphoneの噂にも(あまり)心惑わされず、これからも荒削りながら進化を止めないであろうAndroidを選択したのである。Desireの発売が発表される前はXperiaかとも思っていた。だが、Androidというものの価値はChrome Browser同様素早い進化にあろう。1.6より2.1がいいに決まっているし、2.2やその後のアップデートもあるだろう。ならばである。電波の信頼性は言うまでもなくDocomoであるにしても、スピード、素早さの点でファームウェアのアップデートが秋になるというのは何ともいただけなかった。そもそもGoogleというものの真価はスピードにこそあるだろうに、そのスピード感を思うとこのDocomoの遅さには今後ともイライラさせられるに違いないのだ。そう考えるとSONYらしい味付けも余計な気がして気に食わず、結局ソフトバンクの発表を聞いて迷わずDesireとしたわけだった。

それでどうだったかと言えば、最新のアンドロイドフォンは実に快適である。ストレスなく動くし自由度も高い。一昔前のSymbian機であるN95からの乗り換えだっただけに尚更でもあったわけだが、思っていた以上にスマートフォンの進化は進んでいたことを知った。一番感心したのはGoogleサービスとの直結である。常に同期されているためにPCと携帯でほぼシームレスに使うことができる。各ソフト間でもGoogleを介した同期と連携が進んでいる。カレンダー、メール、連絡先、ノート、マップほとんどのものが連携している様は見事である。その分バッテリーはきついが、家にいる時と外に出た時であまり差のない情報との関わりが実現されることになる。これはいい。

こんな携帯を落としたら大変なことになるが、それはさておき、便利なことではある。この調子で行けば携帯端末が現在のノートパソコンと性能上完全に同等となる日も遠くはあるまい。

と言うわけで、次はPCである。

2010/03/28

PCかMacか

2004年の春モデルだったか夏モデルだったか、ほぼ6年が経過して、かつてはそこそこだった私のパソコンも最近ではその非力さが目立つようになってきた。iTunesでCDを取り込むのに時間がかかり、その最中に他の作業をするのがスムーズでないなどというのはそれはそれなのだが、Browser上の作業自体で十分なだけのスムーズさを欠くのはストレスである。例えば、さほど画質の高くもないFlash動画の再生が途切れたりズレたりするのは実に苛立たしい。ページに埋め込まれたYou Tubeの動画やBayerischer Rundfunkのライブがまともに映らなければ、それは読んでいる本のページが破けているのと同じことではないか。動作や作業そのものに難があるのは困るのである。時間はかかってもリッピング自体ちゃんとできるのと再生自体に不備があるのではそもそも話が違うわけだ。

いや、もっと言おう。無論、時間もかからない方がいいのだ。メールやリーダー、マップやドキュメントといった基本的なGoogleサービスも、Google Earthもサクサク動いてこそのものであろう。仮に本を読んでいたとして、或いはノートをとっていたとして、次のページがうまくめくれなければ不便でもあれば不愉快でもあろう。そういうことである。今後ますますBrowser上のサービスが大きく重要度を増していくに違いない中で、それらが十分に速くないのは到底愉快なことではない。一言で言えば、みな当たり前にパッパサッサと動いて欲しいのだ。機械の都合の機械の処理待ち、こちらの作業テンポとの度重なるズレは我々の生産性と気分を損なう。便利であるべき道具に不便を強いられることが癪に触るのだ。

Goethes Arbeitszimmer
Schillers Arbeitszimmer
Fontanes Arbeitszimmer
Th.Manns Arbeitszimmer
つまり、そろそろパソコンを新しくしたいというわけだ。道具を新しくして、快適な書斎環境を整えたいのである。先立つものの心配はさておき、さてここで気になるのがPCかMacかということだ。6年前に右も左も分からず初めてパソコンを買った時とは違って、「道具としてストレスのない快適さ・便利さ」を求めたいという地点に立ち至った現在、選択の観点は自ずからCPUの処理性能やHDの容量とかだけではありえない。こう書くと「道具としての所有欲を満たしてくれるMacか」とかいう話でもしたそうに見えるが、無論そうではない。

気になっているのはGoogleのことだ。インターネット上のサービスでは、私はほぼGoogleに依存している。検索はもとより、メール・連絡先しかり、カレンダー・To doしかり、リーダーも地図もニュースも画像整理もちょっとしたドキュメントもしかりだ。諸作業の拠点となるBrowserも昨年末からはChromeをデフォルトにしている。Skypeやメッセンジャー系のものはほとんど使っていないので今は関係ないが、将来的にはGoogle TalkやVoice、Waveなどといったサービスも積極的に利用するかもしれない。もしものことを考えればリスクを分散した方がいいのかもしれぬ。が、商売や仕事に使っているわけでもなし、考えてみればダメになって本当にどうにもならず困るほどのものも無いと言えば無いのだ。それにWebサービスなら実際のところYahoo!もWindows Liveも使えるようにはしてはいるのである。ただ使い勝手の点で結局のところGoogleばかりに集中してしまった。(Yahoo!の基本的なゴテゴテ感といい、Liveのいつまでも工事現場じみた完成度の低さといい、どちらも気に入るはずもないのだ。)無論、無くなれば同じことをしようとした場合に何事であれかなり不便になる。だから、あった方が断然いいし、それがスムーズに使えれば使えるほどいいというのも言うまでもない。現在のサービスの進化、今後展開されていくであろう新サービスを考えれば、よほど事態や条件の悪化がない限りやはり依存的な利用を続けていくことになるのだろう。
実際に使っていて相対的に一番納得がいくのがGoogleのサービスということなのだが、そればかりではない。そのドン・キホーテ的なミッションには矢張り心踊らされる。
Google's mission is to organize the world's information and make it universally accessible and useful.
それが悉く検索とその商売に関連付けられているとしても、またGoogleが我々の興味や関心,嗜好や消費傾向、インターネット上の行動などを悉く監視しているとしてもだ。古今東西、全世界のありとあらゆる情報を利用可能なものにするという一見眉唾のような話も、それらの知の集積に自由に触れ利用もしてみたいと考える者にとっては素朴にありがたいものだろう。いつの日か権利や稀少性や独占や保護などの障害に関係なく、好きな本や文章に触れ、読みたい論文や貴重な資料が何でも(無料で)利用できるようになって、それらについての只今この時の議論にも関わることができるようになるのであれば単純に嬉しいのだ。全世界の図書館(と場合によっては談話室)を自分の部屋に、或いは机に、その時居る場所に、更にはポケットに持った幸せを味わいたいのである。
だから、Googleに相性がいいのはPCなのかMacなのかということである。勿論OSではなくBrowserの問題であり、所謂クラウドの問題なのではあろうが、そのBrowserの走るOSとしてはどちらがいいのか。Android問題で悪化しているAppleとGoogleの関係、Appleの閉鎖的な文化が高じてiPhoneのGoogle VoiceアプリのようにGoogleサービスを締め出していくような方向に向かっていけば、Mac用Chromeなどがなくなるようなことにならないとも限るまい。携帯と違ってそのようなことはパソコンにはないのであろうか。また、Windowsの方が常に最新のGoogleサービスを使うことができるという形がこれからも続くのであろうか。Chrome OSとその先にはいったい何が待っているのか。これからの1,2年でいろいろな要素や状況が変わってくるのであろうが。

Nexus One
まだある。具体的な購入の話として先になりそうなのが実は携帯なのであるが、この選択も同時に迷わざるをえない。パソコンの選択はMobile端末としてのスマートフォンの選択にも関わってくる。NOKIAが撤退してしまったから、今のN95の後を何にするか思案している。N95を買った時はまだiPhoneはなく、Androidは影も形もなかった。しかし今は両方ある。今年中には出るであろう次期iPhoneに期待をかけるか、4月には早々に出るAndroid携帯にするか。iPhoneならそのままパソコンもMacにしてAppleで揃えてしまうという手もあるだろう。入ってしまえば快適に違いないAppleの生態系内で暮らすのである。確かにAppleは魅力的だ。音に聞くユーザーフレンドリーな使用感、洗練され磨き上げられたデザイン、物としての高い完成度は果たしてどのようなものであろうか。実に心惹かれるものがあるし、まだそれを知らぬということだけでも興味はつのる。だが同時に、やはり音に聞こえるその秘密主義と制限、不自由さについても同じくらい気になるのである。

Appleの世界は謂わばエデンの園のようなものらしい。そこは確かに楽園には違いないが、人間の自由はその狭い楽園内に制限されて人はそこから出ることを許されないかのようである。Appleの使用には信仰告白が必要なのであろうか。人はMacを前にして選択を迫られるかのようだ。蛇の誘惑に乗ることなく幸福なエデンの園にとどまるか、楽園を喪失しても人間としての自由を求めるか。もしかするとJobsは失楽園以前の人間の姿を求め、原罪を負った人間存在の救済を夢見ているのかもしれない。だがしかし、そこは我々人間のことである。即ち、楽園にとどまっていられるわけはないということだ。それが人間の選択というものであろう。

2010/01/30

いまだ熱き教育者 : Helmuth Rillingのロ短調ミサ1

Helmuth Rillingのロ短調ミサを聴きに川内萩ホールにやって来たところである。コンサートはオーケストラ・アンサンブル金沢の仙台公演という形になっていて、合唱は仙台と盛岡の二つの合唱団が合同で歌うことになっている。楽しみな公演の開場、開演を待つ時間というのもまた乙なものだ。

本日の公演を知ったのは昨年の秋のことだった。秋のオペラ協会公演の際にもらったチラシの中に、(まだ簡単な)今日の公演の案内も入っていて、1つは地元の2つの合唱団については全く知らなかったのだが、秘かに気にはしていたのである。Bachの声楽曲の大きなものが仙台でやられるというのも稀であろう。前売り自体は昨年の10月末には始まっていたのだったが、実際にRilling、萩ホールならば矢張り聴いてみようかという気になってチケットを手にいれたのは既に目出度く年も開けた1月8日の金曜日になってからのことであった。実はこれが結構ギリギリセーフだったようで、その日までは呑気に当日券でも大丈夫ではないかと少々高を括っていたのであったが、金曜日に仕事を終え何の気なしにプレイガイドに寄ってみるともう席を選ぶ余地がほとんどなくなっていたのであった。これには少々驚かされた。萩ホールが一杯になった話などここ1年ついぞ聞いたことがなかったのだ。Rillingゆえか、ロ短調ミサゆえか、地元の合唱団ゆえか、それは分からなかったが、慌てて買い求めることにしたわけである。もっともそこにあったわずかに残っていた席は1階は近すぎるか端すぎたし、2階も思わしくなく、結局、藤崎、ヤマハ(完売であった)、カワイと歩いて最後に三越のプレイガイドで27列のほぼ中央という席を見つけた次第である。2階の最上席というわけにはいかぬが、そのワンブロック後ろ(なだけ)であるから、そんなに悪くはないはずだ。

開場まではまだ一時間半もの時間がある。萩ホールの駐車場はかなり不足しているということであったし、大学構内の道が混んだらいかにも厄介そうでもあった。チケットのこともあったから早めに来てみたわけである。スイスイとやって来て、まだいくらもとまっていない駐車場に早々と車をとめて、今は東北大川内北キャンパス内のまだ真新しい学食(キッチンテラス Couleur)の席に座って、なじかは知らねどカレーを食って、14:15分の開場時間を待っているのである。外はさほど強くもないが雨が降っている。食堂はこの1月に出来たばかりだそうだ。近くにコーヒーの飲めるところはないかと駐車場で誘導をしていた学生に尋ねて来たのだったが、土曜日のせいか聞いたカフェの方は残念ながら休みであった。そこで、そんなつもりもなかったのだが、結局、学生達に混じって定番のカレーを食っているのだ。コーヒーがカレーに化けたのである。何種類かあるカレーの中のレギュラーカレーで、大中小とあるうち中サイズ260円也で、さすがに安いものだ。昔ながらの家のカレーという感じでインド人には物足りないだろうが、意外と具もしっかりしていてライスが固めなのは好みである。定番カレーは矢張り人気なのか早くもなくなりかけていた。

さて、学生時代を思い出しながら、かつまたカレーを食いながらミサの典礼文を予習しているわけだが、いや、私のラテン語も随分怪しくなったものだ。昔から怪しかったといえば怪しかったのだが、大分にあやふやである。典礼文など学生時代にラテン語講読で読んだキケロやヨハネに比べれば全く単純なものではある。全く単純なものなのだが、対訳を見なければ分からぬところが多い。いや、これはいかん。これでは途中Credo辺りで歌っている歌詞が分からなくなりそうだ。演奏中に対訳をごそごそやるのも気に喰わないので、もう少し頭に入れておきたいところだ。カレーを食ったのは正解かどうか分からぬが、早く来たのはこうしてみれば正解であった。まだ予習時間はある。開場時間までには雨も止みそうであるし。では、後は演奏後としよう。



Credo




LateinischDeutsch

Credo in unum Deum,
patrem omnipotentem, factorem caeli et terrae,
visibilium omnium et invisibilium.
Et in unum Dominum Jesum Christum,
Filium Dei unigenitum.
Et ex Patre natum ante omnia saecula.
Deum de Deo, lumen de lumine,
Deum verum de Deo vero,
genitum, non factum,
consubstantialem Patri:
per quem omnia facta sunt.
Qui propter nos homines et propter nostram salutem
descendit de caelis.
Et incarnatus est
de Spiritu Sancto
ex Maria Virgine,
et homo factus est.
Crucifixus etiam pro nobis
sub Pontio Pilato;
passus et sepultus est,
et resurrexit tertia die, secundum Scripturas,
et ascendit in caelum,
sedet ad dexteram Patris.
Et iterum venturus est cum gloria
iudicare vivos et mortuos,
cuius regni non erit finis.
Et in Spiritum Sanctum, Dominum et vivificantem:
qui ex Patre Filioque procedit.
Qui cum Patre et Filio simul adoratur
et conglorificatur:
qui locutus est per Prophetas.
Et unam, sanctam, catholicam
et apostolicam Ecclesiam.
Confiteor unum baptisma
in remissionem peccatorum.
Et expecto resurrectionem mortuorum,
et vitam venturi saeculi. Amen.
(lateinische Fassung nach dem Messbuch der katholischen Kirche)


Wir glauben an den einen Gott,
den Vater, den Allmächtigen, der alles geschaffen hat, Himmel und Erde,
die sichtbare und die unsichtbare Welt.
Und an den einen Herrn Jesus Christus,
Gottes eingeborenen Sohn,
aus dem Vater geboren vor aller Zeit:
Gott von Gott, Licht vom Licht,
wahrer Gott vom wahren Gott,
gezeugt, nicht geschaffen,
eines Wesens mit dem Vater;
durch ihn ist alles geschaffen.
Für uns Menschen und zu unserem Heil
ist er vom Himmel gekommen,
hat Fleisch angenommen
durch den Heiligen Geist
von der Jungfrau Maria
und ist Mensch geworden.
Er wurde für uns gekreuzigt
unter Pontius Pilatus,
hat gelitten und ist begraben worden,
ist am dritten Tage auferstanden nach der Schrift
und aufgefahren in den Himmel.
Er sitzt zur Rechten des Vaters
und wird wiederkommen in Herrlichkeit,
zu richten die Lebenden und die Toten;
seiner Herrschaft wird kein Ende sein.
Wir glauben an den Heiligen Geist, der Herr ist und lebendig macht,
der aus dem Vater (und dem Sohn) hervorgeht,
der mit dem Vater und dem Sohn angebetet
und verherrlicht wird,
der gesprochen hat durch die Propheten,
und die eine, heilige, katholische*
und apostolische Kirche.
Wir bekennen die eine Taufe
zur Vergebung der Sünden.
Wir erwarten die Auferstehung der Toten
und das Leben in der kommenden Welt. Amen.
(deutsche Fassung nach dem Messbuch der katholischen Kirche)
* evangelische Textfassung im Glaubensbekenntnis von Nizäa-Konstantinopel: „und die eine, heilige, allgemeine und apostolische Kirche.“
--
Sent from my mobile

2009/11/07

Giant Seek R2 : 立冬、新ホイールで来る今年3度目の定義山


定義山まで後2km、実はホイールが新しくなっている。

新しいホイールの試走を兼ねて、またまた定義山にやって来たのである。慣らしということもあろうから、今回は55号の山越えルートを取らずにほぼ直通バスと同じ広い道を来てみた。前回来てから早3週間、立冬の紅葉や如何というわけでもあったが、見頃は過ぎてもまだ楽しむことは出来るようである。

舗装し直したばかりの定義に行く道、名残の紅葉。冴え冴えとした鮮やかには欠けるが、まだ大丈夫。


天気が良く、参道は賑わっている。


先ずは御参りを済ます。諸々問題がありそうな頭には念入りに線香の煙を浴びておく。


当然三角油揚げは食す。七味は多めにかける。豆乳も飲む。お土産も買う。

例によって、カフェを兼ねたケーキ屋"Patisserie-Soleil"の外の席に座ってこれを書いている。またも無花果のタルトのケーキセットを頼み、またもコーヒーをおかわりし、またも隣の清水館からはエンドレスに北島三郎が聞こえてくるのである。

今度は食べる前に1枚。その時々色々と盛り付けられるらしい。
前回と異なるのはタルトの無花果が今回は煮たものになっていること(生のほうが好みだがさすがに止むを得ない。生無花果の季節は過ぎたのである)、天気が良く人が多くて隣卓に客がいること、隣り奥の清水館からはサブちゃんの歌声のみならず(心なしかボリュームも高いが)、客寄せの声までが(こんにちはーっ、いらっしゃいませーっ)盛んに聞こえてくることである。今は、タクシーを待つばあさんが私のテーブルの椅子に一言の断りもなく座っている。疲れた脚を休めるのであろう。思いがけぬ相席となった。再び席の選択を誤った気もしないではないが、こんなに天気が好いのだから、やはり席は外であろう。もっとも店の人によると先日寒かった日にはもう雪が降ったのだそうだ。ここに自転車を漕いで来られるのも後わずかであろう。今日は暖かくても(直射は熱いくらいであるが)、やはり冬が来たのである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、肝心のホイールである。MavicのOpen ProとShimanoのDeore XT M756、Sapimのスポークで手組みを頼んだ新ホイールはなかなかに良いようだ。スプロケットも換えたので新しいギア比にまだ慣れぬが、漕ぎ出しには充実感があり、回転が実に滑らかである。剛性も十分なようであるし、なだらかな下りなどはスピードの乗りが格別である。ここまで上ってきて、帰り道がいよいよ楽しみとなった。


 先日1日に出来て来たばかりのホイールを履いてきた。タイヤはContinentalのGrand Prixである。


無論、帰りにはまたポポロでジェラートを舐めていくのである。

塩釜の藻塩を使っているという塩ソフトが美味い。ジェラートは食感がややガサつくが、味はまずまずである。


2009/11/03

何もない休日の片付かぬ愚考


"吾輩は猫である"の珍野苦沙弥先生のもとに作中、天道公平と号する人物から一風変わった一通の手紙が届いた。左右が白で真ん中だけが赤い凝った状袋に入った中身は支離滅裂で訳の分からぬものであったが、苦沙味先生は大いに感心し、書き手の非凡なる一大見識あるを信ずるのである。

若し我を以て天地を律すれば一口にして西江の水を吸いつくすべく、若し天地を以て我を律すれば我は即ち陌上の塵のみ。すべからく道へ、天地と我と什麼の交渉かある。 ......始めて海鼠を食ひ出せる人は其胆力に於て敬すべく、始めて河豚を喫せる漢は其勇気に於て重んずべし。海鼠を食へるものは親鸞の再来にして、河豚を喫せるものは日蓮の分身なり。苦沙弥先生の如きに至っては只干瓢の酢味噌を知るのみ。干瓢の酢味噌を食らつて天下の士たるものは、われ未だ之を見ず。
親友も汝を売るべし。父母も汝に私あるべし。愛人も汝を棄つべし。富貴は固より頼みがたかるべし。爵禄は一朝にして失ふべし。汝の頭中に秘蔵する学問には黴が生えるべし。汝何を恃まんとするか。天地の裡に何をたのまんとするか。神?
神は人間の苦しまぎれに捏造せる土偶のみ。人間のせつな糞の凝結せる臭骸のみ。恃むまじきを恃んで安しと云ふ。咄々、酔漢漫りに胡乱の言辞を弄して、蹣跚として墓に向ふ。油尽きて燈自ら滅す。業尽きて何物をか遺す。苦沙弥先生よろしく御茶でも上がれ。......
人を人と思はざれば畏るヽ所なし。人を人と思はざるものが、吾を吾と思はざる世を憤るは如何。権貴栄達の士は人を人と思はざるに於て得たるが如し。只他の吾を吾と思はぬ時に於て怫然として色を作す。任意に色を作し来れ。馬鹿野郎。......
吾の人を人と思ふとき、他の吾を吾と思はぬ時、不平家は発作的に天降る。此発作的活動を名づけて革命といふ。革命は不平家の所為にあらず。権貴栄達の士が好んで産する所なり。朝鮮に人参多し先生何が故に服せざる。
在巣鴨 天道公平 再拝


すっかり感服した苦沙弥先生は、よく尋ねてくる友人迷亭にその話をする。するとその手紙が実はかつての同窓、現在は瘋癲病院の住人、今や立派な狂人である立町老梅君からのものであったことが判明する。立町老梅君は数年前より自大狂を発し、以来収容された先から知り合いの誰彼構わずに同じような手紙を送りつけていたのである。苦沙弥先生はと言えば、狂者の言にさほどに感心したからには自分も立派な棒組かと自分の神経の加減を疑い、あれこれ考えた挙句、結局

「何が何だか分らなくなつた。」

と簡潔明瞭な何等の結論に達することなく、茫漠として行方の定まらぬままにその思考は停止するのである。

軽重、悲喜を問わず漱石の作品では「片付かぬ」ことが多い。

"道草"の健三は最後、金を無心に来る養父島田の件を証文を取ったから片付いたと安心する細君に向かって答えている。
「安心するかね」
「えゝ安心よ。すつかり片付いちやつたんですもの」
「まだ中々片付きやしないよ」
「何うして」
「片付いたのは上部丈ぢやないか。だから御前は形式張つた女だといふんだ」
細君の顔には不審と反抗の色が見えた。
「ぢや何うすれば本当に片付くんです」
「世の中に片付くなんてものは殆んどありやしない。一遍起つた事は何時迄も続くのさ。たゞ色々な形に変るから他にも自分にも解らなくなる丈の事さ」
健三の口調は吐き出す様に苦々しかつた。


この「片付かぬ感覚」とでも云うべき基調は、文明開化に沸く煌々と照らされた表の背後で、相変わらずランプの明かりも届かず薄暗いままの和室の書斎を思わせる。この仄暗さ、陰影、闇と影が付きまとう感覚は当時の知識人にとっても逃れがたいものだったのではないかと推測する。漱石時代の「現代日本」の光と影、明暗の裏の仄暗さや闇ばかりではない。文字通りガス灯とランプ、幾分かの電灯の時代、日が暮れれば家の中、路地裏、何処彼処と実際に闇と影が溢れていたに違いなく、夜が明けて日中明るいといっても障子越しの仄明るさなのである。何とも片付かない感覚と何とも仄暗い感覚を形作ったいくつかの要因のうちには、この物理的な暗さの影響も少なくなかろうと思われる。ならば当然この感覚も一人漱石に限られたことでもないと思い当たる。好むところから挙げれば、その門下である内田百閒にも、更に時代を下れば向田邦子にも、また系統は変わるが江戸川乱歩などにも共通して感じられるところだ。内田百閒の特に戦前までの作品を読むと子供時代に感じた恐ろしくも懐かしい、黒々とした闇の感覚に包まれる。そして、幸か不幸かその片付かぬ感覚に親和性を覚えるのが、煮え切らぬ男で定評のある私である。


煮え切らぬ男思へらく、

本でも音楽でも、または絵画でも映画でも、或いは食べ物や飲み物、さては考え方や振る舞いでも、何であれ自ずからして好む物は少なくないが、かといって多いというほどでもない。ただ時々、それらがもたらす感動と共感の源は一体那辺にあるものかと、ふと気にかかることがある。一体それの何が、全体我々の何を、果たしてどのように刺激して、そのものを好んだり嫌ったり、果ては愛したり憎んだりさせるに至るものなのであろうか。

或る友人の医師である祖父は精神科医になった孫に対して「おぅY之、そりゃ神経だよ」と言っていたそうだ。別な友人のクールな従兄弟は「そんなものは単なる習慣に過ぎない」と言っていたらしい。私の飲み仲間の一人は、飲みながら「定めだ」と言っていたが、別の一人は「何くだらないこと言ってんだ」と言っていた。確かに原因は脳かもしれなかったし、蓄積した経験の結果に過ぎないのかもしれなかった。運命であるかもしれなかったし、或いはもっと有意義なことを考えた方がそもそもいいのかもしれなかった。

学生時代、好きな物と嫌いな物を悉く列挙して吟味してみれば、その人間についても何らかのことが知れるのではないかと友人同士比べてみたことがあった。山か海か、都市か自然か、精神か肉体か、聖か俗か、夏か冬か、肉か野菜か、ビールか日本酒か、犬か猫か、音楽か絵画か、金髪か黒髪か、粒餡か漉し餡か...etc.etc. 大まかなものから細かなものまで、脈絡があるのかないのか、芋づる式に次々とあらゆるものが掘り出された。結果、確かに何らかのことは知れた。各人の好き嫌いには明確なこだわりもあれば、それなりの特徴や傾向もそこそこ見て取ることもできた。

が、それではそれで結局何が知れたかと言えば、実のところ大したことが知れたわけでもなかったのである。当人が既に知っていることや薄々気がついている程度のことが知れたきりで、ユングが言うところの心理学的類型なるもの(Psychologische Typen)が何ほどか確認されただけなのであった。そして、心理学的類型がいかほどか知れたところで、
つまり、
内向型(introvertiert)か
外向型(extravertiert)か、
①思考(Denken)
②感情(Fühlen)
③直観(Intuition)
④感覚(Empfindung)
の4つの基本機能の内のどれが優勢で、どれが劣等で、どれが補助的に働いているのか、その各人のタイプがおおよそ知れたところで、

それはたかだかそれであった。それでそのまま個性化(Individuation)のプロセスをたどり、有り得べき自己実現(Selbstverwirklichung)がスルスルと叶えられるわけでもなく、結局、単に血液型性格診断程度にしか役には立たなかったのである。「汝自身を知れ(gnothi seauton)」というデルポイの神託に掲げられていた問題は、相変わらず解ける気配もなかったのである。

つまるところ、その時「何が何だか分らなくなつた」ことは、悲しいかな、今も「何が何だか分らない」ままなのである。

文化の日であるが、苦沙弥先生よろしく懐手をするか昼寝をする他ない休日である。