桃の節句には似つかわしくない、時に雪すらちらついた寒さの中、鼻水をたらしながら楽しみにしていたコンサートに行ってきた。年に1度恒例の東芝グランドコンサートで、今回も会場は平板な響きが嘆かわしいイズミティ21である。昨年のノリントンの時とは違い、今回目当てにしていたのはビシュコフでも、ヴィヴィアンでもなく、オケそのものの方であった。ベルティーニ時代に聴きそびれたのを残念に思いながら、結局今日に至ったのだ。10列やや左寄りの席で洟をすすりながら聴いたのであるが、これがまたなかなか単純ではない印象をあれこれともたらしてくれた演奏会であった。
03.03.09 | 19.00 Uhr | イズミティ21大ホール
WDR Sinfonieorchester Köln
Semyon Bychkov
Viviane Hagner, Violine
Robert Schumann Ouvertüre zu Manfred op. 115
Ludwig van Beethoven Violinkonzert D-Dur op. 61
Johannes Brahms Sinfonie Nr. 4 e-Moll op. 98
Zugaben
Niccolò Paganini Capriccio n.2: Moderato -24 Capricci op. 1
Edward Elgar Variation 9 (Adagio) "Nimrod" -Enigma Variations op. 36
登場の様子はいまひとつ感心しなかった。ドレスデン・フィルの見事な入場を見て感服して以来、楽団のステージへの登場の有り様にはいつも注意しているのだが、このケルンのオケは今まで見てきたドイツの楽団の中では最もしまりのないものだった。さすがにみなが揃う前に座ってしまうなどという不心得はなかったが、全体にゾロリゾロリと入ってきて間延びし、揃った後の客席に向いての挨拶もどこか煮え切らぬ感じである。晴れ晴れと気持ちよく胸を張って、きちんと拍手を受けるというふうでなかったのは、正直なところ少々残念であった。ツアー強行軍のまさに最終盤で疲労のピークということであったろうか、顔色が悪く、ニコリともしないコンサートマスターのDiego Paginを始めとして、ファーストヴァイオリンの男どもの湿気た面は最後まで気にはなった。セカンドヴァイオリン以下の弦や管や打楽器の大半は、それでもなかなか元気な様子であったが、一部の男どもはアンコール終了後、拍手喝采が続いているにもかかわらず、いかにも早く 帰りたがっていた(実際にホルン吹きのJoachim Pöltlなどは勝手に先に引っ込んでしまった)。そこにはもしかすると、強行日程の肉体的疲労に加えて、鳴らないホールで余計な奮闘を強いられた不機嫌が混じていたかも知れず、さらにこじつければ、ケルンという現代都市の不機嫌やルールの工業地帯も襲っているに違いない経済危機のギスギスした不愉快さ、見通しの利かぬ不安といったものも反映していたかのようであった。
さて、肝心の音の方はどうだったか。これは見事に、マンフレット序曲の第一音からアンコールのニムロドの最終音に至るまで、実に紛れもなくケルンならではの音であったろう。シューマンもブラームスも、もうすっかりオケの手の内に入ったものだから、たとえ指揮者がいなくても十分という印象であったが、端から端まで高いポテンシャルと底力の感じられる力強さなのだった。しかし、それ故にか、それと同時にどこか荒ぶるというか、手綱さばき次第では乗り手を振り落として、後は梃子でも動かないといったゴツゴツした頑固、頑迷の気配も見え隠れするのである。これは頑固なオケに違いない。押し出しの強いミシッと目の詰まった音で、全体がまるでグッと握り締めた拳(こぶし)のようであった。しかもその拳が決して緩まないのである。無理に力んでいるのではなく、それが当たり前で、それ以外のありようなどは知らないと言わんばかりの雄雄しさなのだ。ケルンというほぼ百万都市の、機能的でクールなはずの放送オケでありながら、スマートさとは全く縁遠い野太さで、そのパワフルな無骨さが意外でもあれば、いくつかの録音を想い起こして、いや確かにそういえばそうであったのだと大いにうなずける気もしたのである。(Hans Vonkとの90年代のライブのSchumannなどはまさにこんな音であった。)
いつからそうしているのか知らぬが、意外にもビシュコフも両翼配置で、左から第1ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、第2ヴァイオリンと並び、チェロと第2ヴァイオリンの奥にコントラバス、左にホルン、右にトランペットとトロンボーンであった。昨年のStuttgartも両翼(第1ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、第2ヴァイオリン、奥1列にコントラバス)であったが、それにしても出てくる音はまるっきり異なるものであった。無論ノリントンのノンヴィブラートのピュアトーンと違うのは当たり前なのだが、そのことを差し引いても、それ以上に音の性質や背後の意味が違っているようであった。すなわち、柔軟に対して頑迷、洗練に対して野暮、新しさに対して古さ、笑顔とフモールに対して仏頂面とメランコリー、ワインに対してケルシュ、軽やかな羽に対してガツンとした棍棒、暖かな太陽に対して力ずくの北風である。ケルンのオケには洗練とか繊細とか柔軟さとか、そんなものなど薬にしたくもないというドイツ的頑固さ、それも田舎のそれではなく、都市におけるそれがよく表れているようで、全く面白い対照ではあった。(ビシュコフもベートーベンではところどころ管を強奏させたり、ティンパニを強打させたりして古楽流のスタイルを一部取り入れたということだったが、フレージングやアーティキュレーションがほとんどそのままなものだから、全体としては全く思いつきの域を出ていないようで、これはかえってちょっと比較にならなかった。)
では、それが嫌いかといえば、その反対である。工業地帯の煤煙のにおいも交えた父なるラインの質実剛健たる泥臭さ、聳え立つDomのように自分たちの流儀を決して譲らず、融通など利かせたくもないといった頑固な気配、ゴリッとした力ずくともいえる肌触りは、これまで聴いてきたドイツの楽団の中でも異質で、東西ドイツ時代ならいざ知らず、現在ではなかなかどうしてお目にかかることのできない、これはこれで稀少かつ魅力的なものではないだろうか。機能性と昔ながらのローカル性の融合である。シュトゥットガルトが新しい知の在り方を感じさせてくれるとすれば、ケルンは7,80年代の昔のGolfに乗っているかのようである。
[強いて言えばベルリン交響楽団(Berliner Sinfonie-Orchester : 現在の Konzerthausorchester Berlin)をうんと機能的にしたら少し似てくるかもしれない。]
それにしても、あのゴリッとした低弦の圧力は相当なものだ。特にチェロのぐいぐい押し出してくる音はパワフルで、あれほどゴリゴリと聞こえてくると、それだけでも痛快である。これでもしもっとホールの響きが上質だったら、低弦の堅固な土台に中域、高域、木管、金管が綺麗に乗って、管弦一体となった古き良きドイツ流の見事なピラミッドバランスとなったやもしれなかったが、実際は豊かに階層化した伽藍が屹立するまでには今一歩至らず、些か団子になったり少々ドンシャリ気味に響くこともないではなかった。ファゴットのHenrik Rabien(頭一つ分大きく、顔が真っ赤になるタイプだ)とクラリネットのThorsten Johannsの表情豊かで誠実なmusizierenぶりや、フルートのMichael Faustの清潔な思慮深さは大変好感が持てたが、響きそのものは空間の中にしっかり抜けきらないような、弦ともいまひとつバランスよく融けあわないような感じで、時にきれいに響かせるのに苦労しているような気配もあって、本当は昨年リニューアルした萩ホールあたりで聴きたかったのである。デッドな上に抜けも良くないものだから、倍音成分が綺麗に響かず、直接音ばかりを聴いているかのような具合になって音の美感が損なわれる感じなのだ。楽団員にとってみれば、平板で奥行きを欠いた響きのホールに抗っての演奏は、余計な負担のかかる、あまり愉快なものではなかったかもしれない。ましてやツアー強行日程の最終盤、疲労がいい加減蓄積していて、しかも前日が大阪のシンフォニーホールときては、疲労に追い討ちをかけるその落差にもう苛立ちを覚えるほどであったかもしれないのだ。そう考えると一部の男たちのあの湿気た顔も分からないではない。むしろその健闘をたたえるべきであろうか。無論私だとて、どうせ聴くならもっといいホールで聴きたいのだ。
2 件のコメント:
Ich finde es schon interessant, mein Blog in einem japanischen Blog wiederzufinden. Auch wenn ich gar nichts lesen kann. :)
Viele Grüße aus Deutschland
Margrit
Liebe Margrit,
vielen dank für die nette Grüße.Ich freue mich an deinem schönen Gartenblog.Auch in meinem kleinen Garten sagen einige knospende Bäume und Vögelein,dass der Frühling bald kommt.
Herzliche Grüße aus Sendai,in Nord-Japan
CASTORPJP
コメントを投稿